自分の体の中に何か違うものが入り込んでくる、というのが嫌いだった。
しかし、食べ物を食べることは違う。合わさった唇を開き、その中に、その中の舌に、食べ物を落とす動作。そして歯で噛んで、いわゆる咀嚼をして、のどの奥に放り込む流れ。食道を通って胃に落ちていったら、後は消化して出すだけ。
生きていく上で必要な事項を嫌いだ、なんて言っていたら生きていけないので、食事だけは嫌いじゃない。
そして今していることはいやじゃないわけで、つまりそれ、即ちこの行為が食事と同等になってしまったということなのだろうか。

「っ、ふ、ん」

閉じている唇を舌先でコンコンと数回ノックされ、恐る恐る開ける。あまりにもスムーズに、それが当然のことだとでもいうように入り込んできた舌が、ぴちゃりと音を立てた。唾液がこちらの口膣内に伝わるのを感じる。
普通、消化液なんてものを飲まされたら怒るのが当然かもしれない。ただし相手がこいつであるならば別だ。そもそも、こいつ以外の人間の消化液なんて触れること自体ありえないだろう。
頭の後ろに手が伸びて、後頭部を包むように持たれ、付け加えて髪の毛までくしゃりと掴まれてしまったのだから、恐らく逃げることはできないのだろう。簡潔に、頭を固定されたということだ。まあ最初から逃げるなんて選択肢がそもそも存在し得ないので、さっき考えたことは本当に横道にそれた無駄話なのだが。
呼吸の合間合間に呼気が鼓膜をふるわせた。ささやくみたいに。
するりするりと舌が優雅に暴れ、好き勝手動き、例えば歯列をなぞり、上あごをくすぐるように撫でる。下りてきた舌は今度はこちらの舌と絡まりあい、複雑な水音を出す。
唾液が溜まって呼吸ができず、少しだけ苦しかった。口の中を動き回っていた舌が、するりとのどの奥へ進入する。唾液が流れてきた。これは飲めということを示唆しているのだろうと勝手に解釈して、こくんこくんと飲み込む。少しだけ甘い味がした。そう、そうだ。チョコレートみたいな。こいつ食ったな、と思いながら、また動いてくる舌に応える。

(まつげ)

うっすら瞼を開くと、閉じられた瞼と長いまつげが視界に入った。なんて長いまつげなんだろう。ただし、女の子みたいにカールしていない、まっすぐなまつげだ。ばさばさと長くて、でも、清楚な印象がある。

(まつげ、ながいな)

ぼんやりと考えながら、そのまつげに触れたいと思った。力の入らない手先がぴくんと震える。そうこうしていると、そいつもやんわり瞼を震わせて開いた。澄んだ色をした瞳が射抜くようにこちらを見る。
離れていった唇が糸を引いて、なんだかやらしいな、と考えた。かと思えばまた近づいてきて、唾液で妙に光った唇の隙間から真っ赤な舌が出てきて、赤い、と頭の中で言っているうちにこちらの唇に触れる。唾液を舐め取るような動きで、上唇。下唇。なでられる。
そしてまた離れて、自分の唇についた唾液を舐め取ったしぐさが、すごくきれいで。
なんだか今なら少し、泣けそうだった。
離れていった唇が、舌が。なくなった口内が、さみしい。しびれるような、うずくような。不思議な感覚が口の中でぴりぴりと蔓延っている。さっきまであんなに口の中で暴れていたのに。もうない。もういない。
それがなぜだか心もとなくて、ぽっかり胸に穴を開けたようで、寂しかった。そっと手を伸ばして、そいつの服のすそを掴む。
俺は、いつもこうしていた。なんだかさっきまでつながっていたのが嘘のようで、それがいつも寂しくて、寂しくて、やりきれない気持ちで、だからまだつながっていたいと、つながっていたのだと、それを証明するかのようにいつもいつも、掴んでいた。まるで置いていかれたちいさな子供のようだと、どこかの神は言うだろう。
苦笑を浮かべたそいつが、優しい声でささやく。

「てを、」

そして俺の、すそを掴む手を取って、そっと絡めるのだ。
誰に見られるかもわからないのに、誰かに見られたら困るのに。そして俺はこんなことを思いながらも、絶対に振り払いはしない。つながっているのだ、今は。たとえからだの中には入らなくても。

「手を、つないで帰りましょう。ね」

そしてそいつがやさしく、やさしく、あまりにやさしく引っ張るから。
想定もしていなかった俺は、あまりの出来事に一瞬泣きそうになって、急いで顔を伏せた。










fjord/食事のおわりに