これは夢だ。
完璧なる夢だと、俺の本能が告げている。理由なんて明白だ。俺の目の前にはいつもの穏やかな笑顔とは程遠い、悲痛とも言える表情を浮かべたやたら図体のでかい奴が立っていて、そして家で寝ていたはずなのにSOS団の部室にいるのだから。これを夢と言わずして何になると言うのだろう。だからこれは、夢だ。夢でなければならない。

「   」

まるで迷子になってしまった子供のようにくしゃりと顔をゆがめて声を上げたそいつは、縋るように手を伸ばしてきた。そんな手、知らない。いつしか出会い、そしてもう会うこともないだろうと切り離した存在がどうして、どうして今ここにいる?
落ち着かない脳みそに落ち着けと命令しても、全く落ち着くはずがなく、俺はどんな表情を浮かべればいいのかすらわからず困惑していた。黒の詰襟が一歩近づく。

「   」

甘えたがる子供はこんな声を出すのだろう。
伸ばされた腕が、首に回った。俺は反射的に逃れようと身をよじらせる。するりと抜けていった制服の感触が思った以上にリアルで笑えた。笑うしかない思考だっていっぱいいっぱいだったのだ。

「どうして」

俺の名前を呼び続けていたそいつはそっと手を引っ込ませ、責めるようにぼそりと呟く。形のいい唇が悔しそうに引き結ばれた。ああ、噛むな。血が出てしまう。
おかしいな、俺はお前に優しくするつもりなんてないのに。これっぽっちもないのに。

「どうして、逃げるの」

どうして逃げるのって言われてもな。
俺は困惑することしきりで、そうだな、強いて言えばお前は俺の知っているお前じゃなくて違う世界のお前で、そしてもう二度と会うこともないと思っていたお前がこうして目の前にいて、泣きそうな顔をして俺にすがり付いてくるからだよ、と頭の中で呟いた。どうか俺の心がそいつに伝わればいい。
しかし伝達は失敗したらしく、いよいよ泣き叫ぶ直前の子供のように瞳を細めたそいつが、俺と少しの距離をとって目元を押さえた。俺の頭の中に、わああああ、と泣き叫ぶ子供の声がこだまする。この声はそいつじゃない。ただの俺の妄想であり、存在しえない誰かの声なのだ。その誰かがこいつではないと、知っている。
大人らしい風貌をそのままに、そいつは静かに泣き出した。とたん、頭の中でわああああ、と叫んでいた子供の声が強烈にがんがんと脳内を荒らしつくしていく。わああああ、わああああ。なんで泣くんだお前は。どうして泣くんだ。いや、これはこいつじゃない。俺の想像だ、妄想だ、だから消えてくれよ、お願いだから。
もしくは俺がここから消えたい。

「逃げないで」

そいつがしゃくりあげながら小さく呟いた。俺はいつの間にやら自分の頭を押さえていたらしい手をそっと下ろして、細めていた目をゆっくりとそいつに向ける。逃げないで、と言いながらおまえは逃げていくじゃないか。黒の詰襟が遠ざかっていくような情景が俺の目に飛び込んできた。

「ぼくから にげないで」

半ば悲鳴のように叫んだそいつは、助けを求めるように俺に再び手を伸ばす。今度こそ反射的に掴んでしまった俺は、しまった、なんて思う余裕もなくて、ただどうやったらこいつが泣き止むのか、それだけを考えていた。
例えば真っ暗な世界の中でも、誰かが隣にいればそれだけで心強いように、掴んだ手指に力をこめる。手先まで脈がどくどくと打っている、それがこいつに届けばいいのに。
俺の掌に触れたそいつが、世界が色づいたかのように微笑む。

「   」

きゅうっと握り返してくる拙い力が、なぜか無性に泣きたいくらい優しくて、それから耳に優しい、甘ったるい声が鼓膜を震わせ、ああやっと泣き止んだ、と俺も笑った。










不在証明/二度と夢は見ない