吐くかと思った。
食べ物を口にした後で無理に運動するのはよくないというが、俺は別に運動をしたわけではない。かといって動いていないわけではなく、日常では当たり前くらいに部屋を歩いていた、くらいだ。ややこしいな。
俺は古泉の部屋の全身鏡を見つめた。離れた距離からでも俺の姿はよく映る。何もかもが小さくて細い。細い。腕なんか棒切れみたいだ。というのも、俺がこの体に拒絶意識を催して食べ物を一切口にしなかったからだが。
今さっき無理に古泉に無理矢理詰め込まれたから食べたのものの、俺はどうやったって嬉々として飲み込むことはできなかった。いっそ死んでしまいたかった。死ぬなんて言葉は無縁のように思えたし、いっそ一生縁遠いものであってほしいと思っていたのにこの仕打ち。俺は死にたい。しにたかった。
だって俺の胸は膨らんで、下半身についていたものはついていないんだ。体のどこもかしこもがふにふにしてて、触るとやわらかくてすべすべしてて、こんなの俺の体じゃない。ありきたりなエロゲでもあるまいに、これは空想上の物語です?そんな簡潔に終わらせられるわけでもあるまいに。だってこれは現実だ。
気持ち悪さについに耐え切れず、ドタドタと乱暴な音を立ててフローリングの床の上を走った。気付いた古泉は洗い物をしていたらしいがガチャンとこれまた乱暴な音を立ててこちらに走ってくる。ドタドタとやかましい。俺も言えた義理ではないが、床にかかる重圧を比べると古泉のほうが断然重たいだろう。それつまり、古泉のほうがうるさいということだ。
俺はトイレに立てこもることにした。便所に篭城なんてつまらんな。そのまま古泉がどうしたんですかと問いかけてくる声も全部スルー、聞かなかったことにすらしてしまって、便器に向かっていろいろ吐く。いろいろって、そりゃ、いろいろだ。思い出させないで欲しい。いや、現在進行形で進んでいる現実だが。
吐いたものはどろどろとしていた。そりゃ当たり前である。俺が最近食べ物を食べていなかったという事実を考慮して、古泉が最初からドロドロのものを食べさせたからだ。離乳食みたいな。変な味はしなかった。多分おかゆか何かだと思う。おかゆにしては味がよくついていたが。じゃあおじやか。それにしては具が少なかったような。ああいい、とりあえずドロドロのものを食べさせられたんだ。
消化し切れていないものだから、ドロドロはありのままで出てくる。多少緑色が窺えるのだが、これは胃液だろうか。胃液だろうな。胃液は緑色だ。そのまま調子に乗ってゲロゲロ吐いていたら、おおよそ乱暴と表現できるドンドンとした音が激しいガンガンという音に変わった。何の音だろうなんて聞くまでもない。古泉がその拳を親の仇とでも言わんばかりにドアにたたきつけているからである。お前、仮にも自分の家のドアなんだから大切にしろ。もしこれでドアを蹴破りでもしたら、お前はその瞬間から先トイレにどうやって入るつもりだ。見てくださいオープントイレ。笑えない。
胃の中がいよいよ本格的に空っぽになった俺は、はくものももう無いしどうしようか考えてみた。そうだ、俺は死にたかったのである。死にたいと表現するからにはそれなりの行動も伴わなければリアリティがないな。というわけで、何か鋭いものを探してみるのだが、俺のお眼鏡にかなうものは無かった。トイレに凶器を仕込むくらいなら古泉はやりそうなんだけどな。って、古泉に対して変なイメージを持ちすぎである、俺。
こんなことで死ぬのかと問いかけられたら俺はそいつを大気圏までぶっ飛ばしてやる自身があった。だってこれは俺の体じゃない俺の意思じゃない俺のものじゃない。どこもかしこも柔らかくて、股の間からは赤黒い血がドロドロ出てきて、それでも俺の体だなんていいきれるほど俺は図太い神経をしちゃいなかった。もうこの体になって何ヶ月経った?何ヶ月も登校拒否なんてしゃれにならないからいくらかは出ているものの、どうしてもダメだ。俺を女として受け入れている奴らに吐き気がする。俺は女じゃないどうして勘違いしてるんだ、って俺は叫んでやりたかった。気違いと口にされるよりは我慢するほうが俺のヒットポイントを減少させないので、俺はあえて我慢した。我慢だって限界はある。転がり込んだ古泉の家で死ぬなんて迷惑にも程があるな、と思いながら俺は動きを止めた。古泉、そうだ古泉。あいつは今も律儀にドンドンガンガンとドアを叩いている。拳から血が出るぞ。俺は別に構わないけど。いや構う、精神的に。
ドアをあけるとガンという派手な音とともに古泉が自分の額をおさえた。あ、スマンそこにいたんだったな、とわかりきったことを口にする俺に、古泉は怒るよりも真っ先に大丈夫ですかと言ってきた。なんて馬鹿な、いや、優しいやつなんだ。
俺はゲロくさいトイレを一瞥してからスマン吐いた、せっかく食べさせてくれたのにな、と自分に出来る限りの精一杯の優しい声音で呟いた。古泉はそんなのいいですからと必死の形相で言う。怒っていないのだけはわかったが、恐ろしく心配していることに気付いて少しだけ罪悪感が生じた。古泉の拳は痛ましいほど真っ赤になっていて、よくよく見れば皮膚に赤い線が走っており、切れていることを俺に知らせる。痛かったな。多分痛かったんだろうよ。だけど俺は古泉に謝罪する術を持たない。謝ったって、何に?と問いかけられてしまえば俺は答えることができないからだ。
そのままずるずるとその場所にしゃがみこんで、自分の口を押さえた。古泉のどうしたんですかという問いかけにもどうにも答えられない。俺は古泉に死にたいという一言を言えるだろうか。言ったらぶん殴られるかもしれない。あんた、ふざけんなよって罵られるかもしれない。でも古泉、お前は味わったこと無いだろう、自分の体が自分じゃなくなるの。あ、いや、味わったことはあるかもしれないな。超能力を身につけたら、以前の自分の体じゃない感覚を覚えるかもしれない。
そのまま無機質に泣き出した俺を見た古泉は、お腹が痛いんですかとかまだ気持ち悪いんですかとかお腹空いてるんですかとか的外れなことを言っていたが、俺の無反応に飽きたのか疲れたのか、とにかくそこはどうでもいいのだが、何も言わなくなった。かと思うと俺を抱え上げ、ベッドまで連れて行く。強制的に寝かせられる。いかん、寝たらせっかく考えていたことが考えられなくなってしまう。待て古泉、と口に出そうとすると、古泉は全く的外れな視線を俺に投げつけてきた。なんでお前の目はそんなに熱っぽいんだ。熱か?
古泉に些か乱暴にベッドに投げられたかと思うと、そのまま上に覆いかぶされる。おいお前それはちょっと無いんじゃないのか。デリカシーが大いに足りない。女の体に拒絶反応を示している俺にわざわざ自覚させるような行動をさせるなんて、全くいかん、いかんぞ。だから直ちにどけ。
古泉は相変わらず熱っぽい瞳で俺を見ていたかと思うと、そのままぼろぼろと泣き出した。なんだこいつわけわからん。熱っぽい瞳は泣き出す兆候だったのか?そのままおいおいと俺の腹あたりに泣き付いてきて、腕を回してくる。なんでこいつが泣きそうなのか理解ができん。ひとまず古泉よ、放してくれないか。でなければ俺は死にたいと思わず口にしてしまいそうだ。
俺のやわらかい体にしがみついていた古泉は、ふいに顔を上げると俺の頬やら額やらに指先で触れてきた。顔が近づく。そのせいで古泉の涙が頬やら何やらにぼたぼたと落ちてきて、しまいには唇の隙間から口内に入ってきてしまうのだが、しょっぱいそれを味わった俺はまた吐き気を覚えた。とりあえず体の中に入ったものはすべて出したくなるらしい。拒食症じゃないか立派な。
逃がすつもりは無いとでもいうように俺の顔を固定した古泉は、相変わらず泣いたまま首筋に顔をうずめてきた。両手が固まったかのように動かない俺にぐすぐすと情けない声を上げてさらに腕をからめてくる。俺はどうすればいいんだ、突き放せばいいのか抱き返せばいいのか。おおよそ甘い雰囲気とはいえないこの空間に俺はどんな言葉を投げかけるべきなのか。古泉はなれろ、はちょっとかわいそうな気がしてきた。
すると古泉は俺の唇をべろりと舐めてきた。おまえなにをする。恋人という役職を得たわけでもないのに何をする。いや、その目は今にもナニをしそうで怖い。そのまま乱暴に唇に噛み付かれた。唇に感じる豪快な痛みに眉を顰めると、古泉は相変わらず泣きながら俺の衣服をはいでいく。古泉さんお前のやっていることは全く理解できません。晒された俺の胸元は、外気に触れて多少粟立っていた。ピンク色をした部分に古泉の手が触れる。冷たい感覚にそれはすぐにかたくなっていった。これは快感のせいではないと主張しておくべきだろうか。
古泉の泣き顔に押されて全く抵抗していなかったが、俺は抵抗するべきなのだろうな。やや腕を突き出して古泉を引き離そうとしたが、古泉は俺の腕を逆に掴んでやんわりベッドに押し返してきた。もし古泉が無理にでも俺の両手をひとまとめにして情事を進めようと思っていたならば、俺は全力を持って古泉の急所を蹴りつぶすところだった。男女の力の差なんて見せ付けられた日には舌噛んで死んでやる。最も、舌を噛んで死ねる確率は低いらしいが。
古泉の手に触れられてかたくなった胸の中心を、そのまま古泉は舐めた。舐めるな、俺のチチからは母乳は出ません。いやいつかは出るかもしれんが。古泉お前はいきなり母親が恋しくなったのか。問いかけると、そんなわけないでしょうと古泉は涙声で呟く。
自慢じゃないが俺と古泉は男同士でありながらも触れ合うくらいは何度かしていた。だけど、致したことはないのだ。誓ってもいい。キスだってろくにしてなかった。いや、そもそもするつもりがなかった。元々俺も古泉もそこまで性的なことに関して積極的ではない。触れ合うくらいでちょうど満たされていたのだ。だから今こうして、女の体に執拗に触れてくる古泉に言いようのない不満が湧き上がってくる。お前俺が女の体だから興奮してるのか。
そんなわけないじゃないですかと古泉が叫んだ。今度はちょっと怒っていた。
そのまま下にはいていたズボンを下着と一緒にずり下ろされる。お前本気でトチ狂ったか。俺は古泉を蹴り上げようとしたが、中途半端なところでおろされたズボンが邪魔で蹴られなかった。古泉どうしてお前、とちょっと泣きそうになっていると、古泉は俺の手首や腰周りを撫でる。
こんなに細くなって、お腹だってべこべこで、太ももなんてがりがりで、二の腕なんて棒切れみたいじゃないですかと古泉はまた泣きながら言った。それを俺に知らしめるために服を脱がせたのか?思うが脱がせる必要はないんじゃないのか。
古泉はそのまま俺の体をぎゅうっと抱きしめると、おねがいですから死なないでと懇願するように呟いた。俺の考えていたことが口から出ていたか、読まれたのかと思った。ひやりとした背中を撫でられて、首筋にキスを落とされる。古泉がまた泣くので、胸元になまあたたかい涙が伝っていく。
僕はあなたとずっと一緒にいたい、と消え入りそうな声で言った古泉に、俺はどんな言葉をかけてあげればいいのか何分か迷った。拒絶ととられても仕方ないくらいの時間をかけてなぜだ、と返すと、古泉は真っ赤な瞳を俺の瞳と合わせる。だってあなたが好きだから、とこいつにしてはあまりヒネっていない告白をされて俺はなぜか笑ってしまった。どうしてこんなシーンで笑えるんですか、と怒られてしまったが仕方が無いだろう。お前に余裕がないシーンは笑うしかないんだからな。
古泉はしばらく泣いていたかと思うとぐずりながら俺の体に下着と服を着せる。結局着せるのに何故脱がしたんだ、あ、いや、俺に俺のからだの不調さを知らしめるためだな。スマン。
それからまた抱きしめられて、リアルな心音を聞きながら俺は目を閉じた。こいつが死ぬなというのなら死なないでいてやろうという尊大な気持ちをなんとなく覚えてみるが、だとしたらこの体と向き合っていかなければならないのだ。俺はこの体を受け付けられない。だけど古泉は死ぬなという。最悪のループ。それでも俺は生きてみよう。古泉ならなんとか受け入れてくれんだろ。
手始めに俺にこの体を好きになるようなんとかしてみろと古泉に言ってみると、古泉は泣きながらじゃあ子作りでもしますか、と言い出した。子作りしてどうするんだお前の子供を産めというのか。古泉は否定しない。そしたらあなたは僕の子供を産んで育ててくれるでしょう。子供のためにもあなたは生きていてくれる。そして僕もあなたのそばにずっといられる。なるほど合理的だね。
だったら古泉、まずはプロポーズから始めたらいいんじゃないのか。
fjord/甘い悪あがき
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