手品、あるいはその類のものであったと説明されたら、あたしは素直に納得してしまうかもしれない。どこかの有名プリンセスよろしく、イリュージョンだか何だかで、自らの体を消してしまうなんてことができるはずが無い、なんて思っていても、事実目の前から姿を消してしまったのだから。
面白いことが起きればいい、面白いことが起きなければつまらない、そう考えていても実、あたしは常識的な人間だった。人間が消えるはずが無い。異世界人だと主張する目の前の男だって、きっと頭がイカれてるに違いない。そうじゃないと説明がつかないもの。だけどあたしは男の支離滅裂ながらに魅力的な話に耳を傾ける。本当にそうであればいいのにと思いながら。





「………消えた、の………?」

ぽつりと呟いた声が木目に吸い込まれていった。
古泉くんがアンティークものだと称したパソコンが、チカチカと瞬いたかと思うと奇妙にぶぅん、という音を立ててぷつりと切れる。ディスプレイの電源か、あるいはハードディスクの電源が切れたかはわからないけれど。かと思うとまたぷつっと音を立てて再起動する。わけがわからない。全くわけがわからない。
さっきまで椅子を挟んで立っていたジョンがこの場にいないという事実に関しては、数秒後置いてからようやく気付いた。机の下に隠れたんじゃないかとか、実は窓をさっさと開けて飛び降りて死体となったんじゃないかとか考えたけれど、まさかそんなバカらしいことをあのジョンがするとは思えない。
点滅するディスプレイには、短い英単語が表示されている。


Thanks.


なにがありがとうなのかはわからないけれど、きっとそれは向こうの世界での宇宙人の言葉じゃないのかと思った。緊急脱出プログラム。まるであたしたちの世界が攻略不可能なダンジョンみたいじゃないの。
だけどジョンは緊急脱出プログラムを見つけて、心底嬉しそうに微笑んでいた。ようやく帰れる、みたいな顔だった。あたしたちの世界を拒絶されたようで悲しくもあり、ジョンがそれほど帰りたいと願える世界はきっと楽しいに違いないと羨ましくもあり。あたしの望む楽しい世界は残念ながらあっちのあたしにしか与えられなかったようだけど、これはこれで楽しいものもある。
向こうの世界のあたしは面白いことに気付いていない。ジョンに会えたのはあたしだけ。

「え………?えっ?あの、さっきのひと、どこに……?」

うろうろと視線をさ迷わせる可愛らしい朝比奈さんにあたしは手を伸ばした。大丈夫よ。ちゃんと元の世界に戻ったの。あたしの言葉にさっぱりわからないと首を傾ける彼女にもう一度呟く。大丈夫よ。あるいはあたしがあたしに対して言いたかった言葉かもしれない。
突然あたしたちを不思議に巻き込んで勝手に帰ってしまったジョンに怒りを覚えなかったといえば嘘になるけれど、巻き込んでくれただけで御の字なんだから別に咎めりゃしないわ。
寒そうな古泉くんにジャージを貸して、あたしは部室を見渡した。
埃っぽい空気を解消するため窓を開けて換気する。飛び込んでくる冷たい風が今はちっとも気にならない。

「探しに行きましょう」

あたしの言葉に全員が揃って「は?」とでも言いたげな表情を浮かべた。どんな顔をされるかとは思ってたけど、やっぱり想像通りでつまんない。予想外の動きをしてくれる何かを探してたのね、あたしは。今更わかりきったことを考えたって意味はないけれど。
机の上に置いたままの鞄を手にとって、いまだあっけに取られたままの皆を見回す。探しに行きましょうよ、ともう一度言うと、彼らは何を、と口をそろえて言った。

「ジョン・スミスよ。あたしたちの世界だけの、ジョン――」




翌日、あたしは授業が終わるなり古泉くんを連れて北高へ向かった。見慣れないあたしたちの服装にチラホラと視線が投げつけられるものの、睨んでいればそのうち視線をそらしていく。あらかじめ呼びつけておいた長門さんと朝比奈さんは、終日困ったような瞳をあたしに向けていた。
しばらくすれば来るだろう、五組のSHRが終わったから、と長門さんの言う言葉通りに、ジョンはやってきた。眠そうな、どこかかったるそうな瞳でぼうっと視線を地面に固定させながら。隣には知らない男二人が並んで歩いていて、その二人も眠そうでかったるそうな表情を浮かべている。でもあたしの視界に、そんな二人は入っていても入らない。ただ、ジョンだけしか映し出さない。
なんだ、あんただって、つまんなそうな瞳をしてるじゃないの。

「ジョン・スミス!」

声をかけた。ジョンはあたしの大声に何事かと視線をよこしたけれど、自分を呼ばれているとは思わなかったらしい。かわりに、どこかで見たような男がこちらを見て、「げっ、涼宮だ。おい、呼ばれてんぞ。昨日お前が探してただろ」と小声で呟いていた。ジョンは、自分の世界ではなくなった世界で、どれだけ苦しんだんだろう。

「知らん。ていうか、スズミヤ……?って、誰だ?」

「はあ?お前が昨日さんざわめいてたんだろうが!涼宮ハルヒはどこだって!」

「はぁ?…知らん。大丈夫か、お前」

「大丈夫じゃないのはキョンだよ。本当、大丈夫?」

そんな会話を繰り返している三人は、あたしたちのことなんて全く意に介していないようだった。係わり合いにならないのが一番だとでも言うように、視線をそらしてそそくさと逃げていく。(ああ本当にジョンじゃないんだと、まざまざと思い知らされた気がした。目の前にいる生き物が本当は死んでいたのだと知らされるようなそんな感覚。でもあたしの胸はどきどきと高鳴って新たな不思議に引き寄せられる。)
それを追いかけたのは長門さんだった。

「き……、キョン!」

女のあたしでも可愛いと思えるような、か細くて震える声で。

「………さん」

ジョンは振り返り、隣の二人も立ち止まる。ジョンの唇が、「あれ、図書館の」と動くのを見て、(正しくは長門さんの名前を口にしないのを見て、)長門さんはへにゃ、と眉を垂れ下げた。
なんだかひどくへこんだ様なその背中に、声をかけるべきか数秒考えて、やっぱり声をかけようと口を開く。その瞬間、背後から長門さんとよく似た声音が響いた。

「対象物を確定。これより空間異常を是正する」

え、と呟き、振り返ろうとしたとき、体の横を小柄な影が素早く移動していく。目で追いかけた。長門さんにしか見えなかった。長門さん、と私が口にするよりも早く、その小柄な影が立ち止まっている長門さんを追い越し、ジョンの左右に立っている男たちへ両手を伸ばす。

『      』

早口で呪文のようなものを唱えたかと思うと、男たちはバタンと大きな音を立てて倒れた。「谷口!国木田!」ジョンが驚いたように声を上げる。そのジョンの腕を掴んで、長門さんによく似た少女がこちらを見た。

「……長門、さん……?」

本当によく似ている。瓜二つだ。双子といわれたら間違いなく納得してしまうだろう。けれど長門さんは驚いたように、ふらふらと後退る。「あなたは、だれ?」と、か細い声が呟くのを確かにあたしは聞き届けた。
少女がジョンの額に手を当てて、ジョンが何かを口にするよりも早く、スラスラとまた何かを唱える。そしてジョンはゆっくりと瞼を伏せて、二人に折り重なるように倒れた。

「っ……!」

長門さんがジョンに駆け寄ろうとする。けれど、少女はそれを許さない。
顔はそっくり同じなのに、受ける印象は全く違った。控えめながらに感情表現をする長門さんと違って、少女はどこまでも冷たい。冷たい、と表現するのはなんだか間違っている気がするけれど、無表情、あるいは、無感情、というか。あらゆるものに対して向ける感情が最初から欠如しているような風体だった。
その瞬間、あたしは唐突に理解する。これは、ジョンが言っていた宇宙人だと。わからない。わからないけれど、この長門さんそっくりの少女は宇宙人で、絶対にこの世界の人間じゃないと本能で悟った。
宇宙人はあたしたちを見て、「ひえ」おびえる朝比奈さんにも無感動な瞳を向ける。長門さんがかたかたと震えているのを見て助けに行くべきか迷った。だってこの宇宙人はきっと、あたしたちには何もしない。

「ごめんなさい」

トーンの変わらない、平坦な声がして、あたしは口を開いて何かを言おうと思ったのだけれど、何か言うまえに目の前が真っ白になった。最後の最後に耳に入り込んできた宇宙人のなだらかな声。時空値調整の開始――、その言葉に、あたしはタンマをかけようとして、その言葉の意味がわかってしまったからやめてって言おうとして、ちかちか光る光の中に思考を放り投げてしまった。







――十二月十八日の早朝。あたしは涙を流しながら目を覚ます。
泣いている理由が思い出せない。怖い夢を見たわけじゃない。
どうしてか、大切なことを忘れてしまったような気がするんだけど。










20080220/白昼夢は苦いあじ
(現実を乱していったキョンの足跡を消していく長門)