守りたいと思ったのは、はじめてだった。
授業が終わった教室で、先生が出て行った直後に湧き上がる生徒たちの楽しそうな笑い声。今日帰ったらどこ行く、とか、こないだ新しい店が出来たから行ってみよう、とか、部活があるから残ってる、とか。そんな他愛ない話を耳に入れていると、ふいに自分の立場を忘れてしまう。
「朝比奈くんっ!」
ころんとやわらかい声に急いで顔を上げると、クラスの女の子たちがこちらを見て笑っていた。ばいばい、と、手を振るその仕草に、思わず反射で手を振り返す。その拍子に、持っていた教科書が音を立てて机の上を滑り落ちていく。「ひやああっ!」椅子から立ち上がって拾っていると、手を振っていた女の子たちがくすくすと笑った。今日もかわいいねえ。ばいばい。
僕はあいにく男の子なので、かわいいと言われてもあんまり嬉しくはない。背丈は高くないし瞳も丸くて迫力に欠けるけど。肩幅も狭くて筋肉だってついてないけど。それでも立派な男の子なのだ。
かわいいとはやし立てられて守ってあげたいと口にされるたび、僕はどうしてこんな体なのだろうと思う。別に誰かに強要されてこんな体になったんじゃない。生まれつき。遺伝。いくら未来でも男と女が結ばれて子供が生まれるシステムは変わっていない。残念ながら僕は遺伝なのである。
小さな掌を見ているとむしょうに泣きたくなった。だって僕はおとこのこなのに!睨みつけてもかわいい、怒ってもかわいい、何をしてもかわいい。いっそ僕が女の子だったらよかったのに。
ああでも、僕が女の子だと、ひとつだけ困ることがある。いつものように部室棟に行きながら、ひとり考える困ること。僕のこんなちいちゃな体でも、頼りない体でも、頼ってくれるおんなのこ。裏も表も計算もなしに、微笑んでくれるおんなのこ。
ノックをすると、返事が返ってきた。
「キョンくん」
開いたドアの向こうには、やっぱり微笑んでいる彼女がいる。
こんにちはと言った唇は、僕なんかのものとは違って薄いピンク色をしていた。肩幅だって僕と同じかそれより小さいくらいだし、腰なんかは折れちゃうんじゃないかってくらい細い。手首に至っては服で見えないけれど、きっと掴んだらすかすかなんだろう。そのくせ注視はできないような場所にはきちんとふたつのふくらみがあって、やわらかそうにその存在を主張している。
ああやっぱり、僕なんかとは、違う。
「こんにちは。今、お茶をいれますね」
机の横に鞄を置くと、すぐにいつもの服に着替えた。男の子だから別に着替えを見られたって平気なんだ。彼女は少し気恥ずかしそうに、視線をそらしてくれるけれども。
ギャルソンのようなエプロンを身に着けて、それに隠した状態でズボンをはき変える。ネクタイをはずした変わりにリボンタイをつけて、皺にならないようカッターシャツをぱんぱんと叩いたら着替えは完了だ。さあ今からやかんに水を入れて、と準備をしようとしたら、そっと横から生白い手が伸びてきた。
彼女が僕の手を遮るように、やかんのもち手を握っている。いったいどうしたのと僕は問いかける。
「今日は俺がやります。朝比奈さんは、座っていて」
「なんで、」
僕が問いかけるよりも早く、彼女の頬が僕の肩にそっと触れた。随分疲れた表情をしてますから、と言われてはどうにも言えない。そんなに顔に出ていただろうかと頬を押さえてみると、彼女はくすりと笑った。あの教室での女の子たちみたいに笑っているのに、でもどこか違う。はっきりとした、優しさを感じる。
水を汲んできますから、と部屋を出て行った背中を目で追いかけて、僕は手持ち無沙汰に椅子に座った。きゅう、と音を立ててパイプ椅子が軋む。最近、確か2キロ減った。ストレスなのかなあ、と思いながら机に突っ伏す。
別段眠いというわけではなかったのに、気付けば意識が飛んでいた。はっと目を瞬かせると、いつの間にやら背中には温かいカーディガンがかけてあって、振り返れば彼女の後姿。コンロとやかん相手に必死に格闘しているようだった。慣れない温度計を使って、僕が随分前に読んで覚えてしまったお茶の本まで引っ張り出して。
あ。じわりと瞼があつくなる。細い腰を、引き寄せたくなる。だって僕はおとこのこだ。彼女の細い腰に腕を回して、彼女を引き寄せて、そうたいして広くない胸板でも、彼女を閉じ込めてしまいたい。
だから――、そう。このときの僕は、非常にタイミングが悪かった。キョンくん、と呼び寄せて、まだやかんに触れている手を引き寄せてしまって。その瞬間に、ノックもなしに突然ドアが音を立てて開いたのだから、彼女にとっての驚愕はどれほどのものだっただろう。ひあ、と喉の奥から搾り出すような声と共に、凶器となった水が宙に舞った。
「―――――っ、あ!」
指にはねたのだろうか。
僕が唖然としてその姿を見ているさなか、ドアを開けて入ってきた人物――古泉くんは、「大丈夫ですか!」とすぐに事の成り行きを理解したらしく、もっていた鞄を投げ捨てるという実に彼らしくない行動を起こして、彼女の体を引き寄せる。華奢な体が、僕よりも大きな、僕よりもたくましい、僕よりもたよりがいのある体に引き寄せられた。やけどを、と古泉くんがささやく。だいじょうぶ、と彼女が呟いた。
僕は。
ぼくは、知っている。彼女が古泉くんをすきなんだって。キョンくんは古泉くんをすきなんだって。知っている。知っているけれど、知っていながら口にすることはできなかった。できるはずが無かった。大きな体にあこがれた。彼女を引き寄せるその力にあこがれた。彼女から好ましい視線を送られることにあこがれた。彼女の興味を引き寄せるものすべてにあこがれた。僕は。
「ごめ、なさ、」
気付くとしゃくりあげるような声が出ていて、キョンくんと古泉くんが振り返る。飛び跳ねたお湯はかろうじて制服をぬらした程度で、彼女の皮膚までを熱してしまったわけではなかったらしい。どうしよう、といった表情が僕を見る。
僕が。僕が引っ張ったから。そんな罪悪感と、古泉くんに対する羨望で胸がいっぱいになる。「朝比奈さん、」彼女がどうしたんですかと伸ばしてくる手が愛おしくて、それを掴むこともできない僕に嫌気がさした。
なんで僕は、こんな体だったんだろう。どうして僕は。
「ごめんなさい、ごめ、ん、なさ、」
鼻の奥がつーんとして痛い。僕がやけどしたんでもないのに火傷したみたいに胸がひりひりする。きゅうっと心臓を掴まれたような悲しさが襲う。どうして僕はこんななんだろう。朝比奈さんのせいじゃありません、俺の不注意ですから、とフォローさせてしまうまでには、僕は随分頼りがいの無い体で、容姿なんだろう。
こわいおもいさせてごめんなさい。頼りない僕でごめんなさい。いろんなごめんなさいがせめぎあってぶつかっている。古泉くんに対するあこがれがどんどん妬みに変わっていく。嫉みに変わっていく。
僕がこんな姿じゃなければ彼女はもっと僕を見てくれたかな?ああでも、僕と彼女は仲良くしちゃいけないんだ。
涼宮さんが来るまでずっと僕は泣いていて、あつかったお湯は次第に冷めていった。
皆が帰っても僕は着替えるという名目で部室に残ったままで、ひとりもそもそとお茶を飲んでいる。やかんの中に残った水をもう一度温めなおして紅茶をいれた。今の自分には濃すぎるくらい甘ったるいミルクティー。いつかティーポットも買いに行きたい、と考えながら、買いに行けない日々が続く。
泣きはらした瞼が痛かった。涼宮さんは泣いた僕を見て、まず真っ先に彼女を怒った。みくるくんを泣かすなんて私刑よ!と叫んでいたけれど、僕は必死にフォローした。けれど涼宮さんは最後まで彼女を怒った。
僕が泣かなければ彼女は怒られることもなく、お湯でやけどするかもしれないという恐怖を味わうこともなかった。全部全部僕のせいなのに、いつも怒られるのは彼女。じんわりまた涙が出てくる。
きっと涼宮さんも、教室での女の子たちみたいに、僕を守ってあげたいと思っているんだろう。頼りないと思っているんだろう。その実、僕は守ってもらわなければならないほど頼りなくて弱っちい。色白にも程があるだろうってほどに白くて、腕力だってちょっと強い女の子には負けちゃう。スポーツ全般がだめで走りもとろい。
あらためて古泉くんが羨ましかった。
背は高くて肩幅は広くて、頭もよくてスポーツもできて。そしてなにより、――彼女を。
ほろほろと流れ出た涙が紅茶の中に落ちていった。「あ…」自分の涙が落ちた紅茶なんて飲みたいとは思えないけれど、捨てるなんてこともできなくて僕はそれを飲み込んだ。元々甘かったからぜんぜん塩の味はしない。しょっぱくなったりしない。はずなのに、どうしてもしょっぱかった。
夕陽が眩しくて、せめてカーテンでも引きたいと思って窓際に寄る。少し遠いけれど、正門が見えた。そこに、彼女と古泉くんがいる。なんだか話をしている。古泉くんはキョンくんの腕を取って、多分お湯が被ったところだと思う、そこに遠慮がちに触れていた。
キョンくんはそれを拒絶しようとして、結局あきらめたみたいに放っておく。しばらくすると、古泉くんが長い腕を伸ばして彼女を引き寄せた。おとなしくされるがままの彼女はすっぽり古泉くんの腕の中に落ち着く。きっと僕だったら、あまってしまうだろうに。
「……あーあ」
ぽちゃんぽちゃんと音がした。
手に持っている紅茶のカップに、また涙が落ちていく。そんなに落ちたら今度こそしょっぱくなっちゃうよ、なんてひとりで呟いて、どこまでも甘やかでほほえましいふたりを、見ていた。こくこくと飲み込む紅茶は甘いのにどこかしょっぱくて、それでいて優しくて、生ぬるかった。手を繋いで帰っていく二人を見送って、僕は微笑む。
でもきっと、僕が古泉くんのような体をしていたとしても、キョンくんは僕を選んだりはしなかっただろう。そもそも僕は彼女に近づいていい立場に立っていないという話は抜きにして、結局は古泉くんを選んだだろう。
彼女を包み込める腕も抱きしめられる大きな体も切れ長の瞳も持ち合わせてはいないけれど、自分を慰められる程度の腕は持っているのだ。
「ひっ、」
しゃくりあげて自分の体を抱きしめた。空っぽになった紅茶のカップはかすかな湯気だけ上げている。お茶より少し熱めのお湯で作らなければいけない紅茶は最後まで温かくて。まるで彼女のようだった。
僕は、キョンくんが好きだ。僕を守りたいと口先だけで言う女の子たちとはちがう。僕の本質をいつだって、見てくれようとする。どこまでもお人よしで、優しい彼女を。
守りたいと思った。
守りたいと思ったのは、彼女がはじめてだった。
20080221/She is Security blanket.(彼女はライナスの毛布)
(朝比奈くんをつつんでいたもの)
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