よくはわからないがとても空虚な気分になったのだ。
あるだろう、人間って。わけもわからず心が空っぽになる。さっきまで好きな食べ物を食べていたとか眠っていたとかキスしていたとかそんなこと全く関係なしに。事前に何をしていようがお構いなく、心が空っぽになるってことがあるだろう。それはまさしく昼前のことだった。まさしく、という言葉を使用するには少し間違っているような気がしないでもないが、仕方ない。俺にはその表現方法しか思い浮かばなかったのだから。とにかくまさしく昼前、俺の心は突然空虚になった。ぽっかり穴があいたようだった。さっきまで蓋をしていた水いっぱいのマンホールの蓋が、全自動で勝手に開いて、水がこぼれ出てしまったような。ああいや、それはわかりづらいな。例えばずっと水の入ったバケツを持っていたとして、それを誰かにひっくり返されてしまったような。とにかく自主的にではなく、突然、心が空っぽになったのだ。
その原因が俺にはわかっていた。わかっていたと過去形にするのはおかしな気がするが、わかってしまったのだから仕方が無いというものだろう。俺は泣きたい気分になった。泣きたい気分というのはその一瞬感じただけで、すぐに掻き消えてしまったが。けれどバケツの中に水が満たされている状態であれば、俺はきっと泣いていた。きっとじゃない。絶対だ。
そっと枕元においてあった携帯を手に取り、履歴に残る電話番号に電話をかける。消えてしまったのはどうやら俺の心だけらしい。空虚な気分で電話をかけ、ツーコールのちに出てきた聞きなれた声に空虚な言葉を吐き出す。

「こいずみ」

はい、と相手が返事をした。
それはまるで、俺がこれから何を言うのかわかっていたかのようだった。言う必要がないほどにわかっているような声だった。だったら俺は言いたくなかった。言いたいと思えるような言葉を俺は持っていなかった。吐き出したくなかった。携帯を持つ手は震えない。かわりに、電話向こうの相手が泣いているかのように軽く鼻をすする。

「こいずみ」

はい。変わりない返事が俺の耳をくすぐった。バケツの水がいっぱいであればこの声はとても俺の心を安らかにしてくれたのだろう。いとおしいという気持ちで満たしてくれたのだろう。なのになぜ、バケツの中は空っぽになってしまったのか。バケツをひっくり返した少女はきっと泣いている。
俺は必死に、どうすればこいつを傷つけないですむのか探した。探しても無駄だということをわかりつつ。相手はさっさと言えと言わんばかりにぐしゅぐしゅと鼻をすすっている。ああばかだな、お前が泣く必要ないのに。いや、そんなことを言うのは酷だな。もし逆の立場だったら俺だってこんなふうになっていたかもしれない。
だったら包み隠さず真実を言うのが一番だろうと、俺はそっと通話口に息を吐く。

「俺、お前のことを、すきじゃなくなった」

はい。
理由云々を続ける気力が無くなるほどに、その一言は俺の体力を消耗させた。なんたることだ。俺の体からがっくり力が抜けると同時に、電話向こうの相手が泣きながらわかってますと呟く。そうだな、おまえはかしこいもんな。かしこくてやさしくて、ばかだもんな。俺が何かを言う前にきっと気付いていたに違いない。いや、きっと気付いていた。こいつはあの少女のエキスパートだ。あの少女が俺に対して何かをしたのにこいつが気付かないはずがない。わかってます、ともう一度。そんなに泣くなよ、俺だって泣きたい。あいにく心は空虚でお前に対する慈悲なんて全く浮かんでこないんだけど。

涼宮ハルヒは俺の、古泉に対する恋情を消した。

ようやく答え合わせだ。なきながら古泉が言った。きっと彼女はどちらかに怒りを覚えたのでしょう。両方かもしれない。いいえ、僕でしょうね。僕に怒りを覚えたんでしょう。今まではいはい従っていた従順なイエスマンが突然意に背く行動をしたんですから。突然じゃないですね。ずっと前からだ。裏切った僕には当然の制裁が下されるわけです。ぼくだけあなたが好きだ。ぼくだけあなたが好きなのに、あなたはもう僕のことを好きじゃない。なんて責め苦でしょうね。まだ僕とあなたの心の中に二人で過ごした記憶はある。記憶を消されるよりずっとずっとひどいことです。そしてそのひどいことを、僕たちはずっと彼女にしていた。当然の結果です。僕は糾弾されるべき立場に立っていた。そしてあなたも。苦しい。あなたをもう抱きしめてはいけない事実が苦しい。もうあなたは僕のことを好きじゃない。僕はまだあなたのことが好きだ。

似たような言葉を何度も吐きながら、古泉は泣き続けた。俺は空虚な心を埋めるべく、必死に水をすくいあげる。けれど水はつうつうと地に広がり、俺の手には収まってくれない。いっそ凍らすことができれば拾い上げることも可能なのに。水は俺の手には戻らないのだ。バケツのなかが寂しそうにひゅうひゅうと音を立てる。気持ちが戻らないことを知っている。古泉。俺だってお前が好きだったよ。携帯を握りつぶさんばかりに持ってもこの怒りがハルヒに届くことはないんだろう。あいつは自分がこんなことをしたなんて微塵も思っていない。事実、あいつに罪は無い。あいつが持っている力こそが罪なのだ。何も知らないあいつを俺は糾弾する術を持たない。気持ちを返せなんて言えるわけがない。俺はあいつに気違いだと罵られるのがいやだった。みっともなくすがり付いて古泉への恋情を返せと言えるほどの感情すら、かけていた。つまりは俺の心から、古泉に向かうベクトルの感情が一切欠如していたのだ。古泉のために行動する必要なんてないじゃないか。でも俺の記憶の中で俺は、ずっとずっと古泉を抱きしめているのだ。そして好きだと言っているのだ。俺よりもガタイがよくて、でも人一倍寂しい背中を持つあいつ。泣くなよ。好きですという言葉に当たり前に好きだと返していた記憶だけが涙を流し続けている。


『まだあなたが好きです』


ああ、でも俺は好きじゃないんだ。










20080224/かみさまだけ知らない
(誰を責めればいいのか知らない)