壇の上で無表情を晒している人形が怖かった。
豪華に飾り付けられた壇のその上に、ともすれば吹き飛ばされてしまいそうにちょこんと座っている白い顔が、夜になると動き出すんじゃないかと幼い頃には思わされた。親王は睦言を交し合い、官女はひそひそとうわさばなし、五人囃子は壇から下りて演奏を、随身人形は密談し、仕丁は楽しそうに酒盛り。眠っている間にきっとそんなことをしているのだと不思議に思い込んでいたことがある。
大きなひな壇の上には相変わらず白い顔がぬらりとこちらを見て鎮座しているが、今は動き出したりするもんか、と思う。人間は成長する生き物だな、とほんの少しだけ笑った。
「どうしたんです?」
隣を歩いていた古泉が、立ち止まった俺に気付いて同じく立ち止まる。半額大セール、と大きなチラシが貼られたガラスの向こうの人形たちに気付いたのか、ああ、と納得したような呟きが漏れた。
「ひな祭り、過ぎてしまいましたからね。だからと言ってその翌日に大安売りするのも、なんだか」
「それは同意見だな」
ひな祭りの直前までは売値高めに出しておいて、シーズンが過ぎた瞬間に売り捨てる。なかなかしたたかな戦略だが、雛人形を取り扱っているのはこの店に限ったことではない。なんとかして売り上げを伸ばそうと、店側も必死なのだろう。売り残った人形たちの、なんと寂しそうなこと。まあそもそも、たった一日かそこらのためにこんな高いものを購入するなんて、いまどきの親は考えないのだろうけれど。
「あなたは、雛人形を飾っていたのですか?」
俺の隣に立った古泉がぽつりと呟く。ショーウィンドウの向こうの人形と目が合った気がして、なんだか変な気持ちになって視線をそらした。
「一応な。うちの親だし、そんなに豪華なもんを飾ってたわけじゃない。近所のお姉さんの所謂お下がりだ。しかもものぐさなもんだから、ひな祭りが終わっても数日間は出しっぱなしで」
「おや。祭りの日が過ぎても片付けずにいると、結婚が遅れるそうですよ?」
「そりゃ昭和初期につくられた迷信だ」
迷信はばかにできません、と古泉は笑う。とは言っても、小さい頃は勿論子供だったわけで、そんなもみじみたいな掌ではろくに片づけをすることは出来ないし、何せその頃は雛人形が怖いとすら思っていたのだ。自ら触れたくないのは当たり前で、親が片付けるのをひたすら待つしかない。
結婚が遅れるなんて迷信も、当時知っていたとしても俺は先急いで片付けようとは思わなかっただろう。もともとそういう願望が薄いんだ。結婚にあこがれる年頃になった今でも、そんなことにこれっぽっちも興味が惹かれない。
「僕のお嫁さんにはなってくれないのですか?」
「寝言を起きているうちに言うとは、お前器用だな」
はいスルー。相手にしている暇は無い。古泉は、ひどいですよ、と言いながらも楽しそうだった。
古泉とは所謂こいびとというつながりがあるが、特別結婚をしたいとかそういう欲求があるわけではない。ずっと一緒にいたいとは思うけれど、悲しいかな世間はメディアという媒体を通して俺に世知辛い男女関係のひどさを教えてくれた。結婚しよう!嬉しい!なんて会話の二年後くらいに会話も交わさない他人同士に戻ってしまうことなんてよくあるケースだ。
「ひどい。僕を信じてはくれないんですか?」
「信じるも何も、未来のことなんてわからないだろう、お前にも」
納得がいかない様子の顔を見上げた。
「もしかしたらお前に、俺以外にスキナヒトができるかもしれない。俺だって例外じゃない。数年も経たないうちに俺が誰かにプロポーズされるかもしれない、お前がするかもしれない。政略結婚とかもあるかもしれない。いやその可能性はほぼ無いに等しいが、まあともかく、絶対なんて言葉は言えないだろう、おれたちは」
人間の言う「絶対」と言う言葉は、信じてはいけない言葉ナンバーワンである。その言葉ほど裏切りやすいものは滅多に無い。信じて、と言う言葉もしかりだ。特に口約束は危ない。
古泉は俺の言葉にぽかんとしていたが、鳩が豆鉄砲食らったかのような表情を瞬時にかき消したかと思うと、突然店の中に入っていった。
「古泉!?」
急いで後を追う。古泉はショーウィンドウから見えていた無機質な人形二体が入ったガラスケースを持ち、とっととレジに持っていく。「何してんだバカ!」いくら半額セールとはいえ、元値が高いものなのだ。五桁は軽くいく値段がレジの会計ディスプレイに映し出されて愕然とする。そして財布の中から当たり前のようにカードを取り出した古泉にも愕然とする。受け取ってさっさと勘定を済ませてしまった店のおっさんにも愕然とする。
「お届けもできますが」
「じゃあそれで」
とかなんとか会話をしながら住所をすらすら紙に書いていった古泉の手を引っつかんで止めればよかったのかもしれない。「速達でお届けします。今日中には届きますので」と言われて頷いた古泉は颯爽と俺の手首を掴んで店から出て行った。カランカランと思い出したかのようにドア備え付けのベルが音を立て、いい顔をしたおっさんが謝礼を口にして頭を下げるところが見える。
こいつはバカだ。今世紀最大のバカだ。ていうかお前男だろう、雛人形買ってどうするつもりだったんだ。実は人形フェチなのか?
「フェチではありません。いえね、あなたから言われた言葉で決心がつきまして」
決心?
「ええ。決心です。まずは一つ、迷信がただの迷信であることを立証させること」
実験かよ。呆れてものも言えない俺は、古泉が進んでいる方向に心当たりがあって目を細める。こいつ、家に帰るつもりだな。もはや半同棲と言っても過言ではないが、俺は古泉の家にいつ引っ越しても構わないくらい何度も泊まっている。生活必需品も置いている。家のどこがどうで何があるのか熟知している。忌々しいかな、それが俺とこいつの関係と言うものだ。そこでなんとなく俺は合点がいった。あの雛人形は俺のために用意されたのだと!
「てめ、俺を結婚させないつもりか」
「いえ、そういうわけではないですよ。僕があなたをもらうつもりです」
もらう!とか!素面で言ってしまうあたり非常に痛々しい!
「言っておきますが本気ですよ。あと、恐らくあなたが疑問に思っているであろう雛人形ですが」
「あ?」
古泉はにこりと爽やかな笑顔を浮かべたかと思うと、マンションのエントランスでさっさと数字を入力して入り込み、エレベータのボタンを押した。さすがにまだ雛人形は届いておるまい。
「立証させると言っておきながら、迷信に頼ってみます。あなたが僕以外の男から結婚を申し込まれたりしないように」
「はあ!?」
あっけに取られて言葉も出ない俺を、とっととエレベータの中に連れ込んだ古泉は鼻歌を歌いだす。こいつ、どこまでもフリーダムだな。それから到着した部屋の鍵を開け、慣れた空間に俺を連れ込んだ。俺がここに泊まり出してからようやくついてきた生活臭がする空間で古泉は、顎に手を置いてなにやら画策している。
それからテレビの置いてあるところを見たり、キッチンの隙間を見たり、自室のコンポが置いてあるラックの下の段を見たり、ベッドの下とか意味の解らないところを次々と見て行き、納得のいかない表情でリビングに戻ってきた。
「雛人形を置く場所、どこがいいですかね?」
とりあえず俺はこいつを殴っていいのかね。
20080303/まいにちたのしいひなまつり
(このキョンは先天性で)
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