彼が、もう疲れた、と言った。

その言葉だけでわたしには十分だった。自分の存在が消失することも厭わない。あなたがこの世界に絶望するのなら。
誰の力の借りず、誰の目にも触れさせず、わたしは静かに世界を閉じる。わたしの暴動の約コンマ秒後には制止部隊がこちらに向かって来ていたけれど、もう遅い。以前の冬に行った世界の改竄残滓データと天蓋領域へ逆アクセスした際に得たデータとわたしの用いる力すべてで、わたしはまた、世界を。

あなたが笑っていられるせかいを。

































「最近さ、夢を見るんだよ」

わたしと彼しかいない文芸部室で、お昼の弁当の蓋を開けながら彼がちいさく呟いた。わたしは開いていた本を閉じ、彼の真正面に座る。持って来ていた鞄から彼より一回り小さな弁当を取り出し、同じように蓋を開けた。

「ゆめ」

「そう、夢。不思議なことにな、長門が自分のことを宇宙人だって言ってくるんだ」

「………」

弁当の敷居近くのウインナーを箸でつかみ(箸で突き刺さないところが彼らしいと思う)、ぱくりと口の中に運ぶ。それからわたしを見て、ごめん、不愉快だったか、と苦笑した。
首を横に振ったわたしに安心したように彼は微笑む。

「宇宙人」

「宇宙人だ。うーんと、ヒューマノイド、インターフェース…?だったかな?っていう名前の。じょうほうとうごうしねんたい…とかいうのが、長門を通して、俺たちとコンタクトできる、らしいぞ。それで珍しく眼鏡をかけてた」

鞄の中にまだ眼鏡は残っている。そっと持っていた箸を蓋の上に置き、眼鏡を取り出した。さして度の入っていない眼鏡のレンズ越しに、彼が目を瞬かせる。「そう、そんな感じ!フレームまで夢の中のとそっくりだ!」彼は面白そうに声を上げると、わたしと同じように箸を弁当の蓋の上に置いた。
でも眼鏡は無いほうがいいな、という言葉に、わたしはすぐに眼鏡を外す。

「あなたもかけて」

「俺?」

「そう」

眼鏡を手渡すと、彼はレンズに指紋がつかないように慎重に受け取り、恐る恐るかけた。わたしにサイズをあわせているせいか、少しきつそうにも見える。それから、小首をかしげて、にあってるか、とわたしに問いかける。
その笑顔を見て、わたしは胸が温かくなるのを感じた。体温〇.二度上昇。この感情を、何というのかわたしはまだ、知らない。

「似合っている」

「そっか」

「とても」

「……そ、っか。………なんか、照れるな」

ありがとう、と言って外した眼鏡を私に返した彼は、でも長門ほどは似合ってないさ、と言ってまた箸を手に取った。そんなことは、ない。あなたも十分にあっている。
視線を下げると、彼がからあげに箸をつけているところだった。そう、いつも彼の弁当にはからあげが入っている。恐らくは既製品。彼の弁当の中身は半分が既製品で半分が手作り。わたしの、すべて既製品のものとは違う。温かみがある。
見続けていたせいか、彼がそっと箸を私に突き出してきた。その先には、小さなからあげが。怪訝に思い顔を上げれば、彼が食べるか、と小さく呟く。
返事のかわりにぱかりと口をあけると、彼が笑いながらからあげを口の中に入れてくれた。

「うまいか?……つっても、冷食だが」

「おいしい」

そうか、と言って穏やかな表情を浮かべた彼は、ふと窓際のコンピュータの横に置かれた部誌に視線を移した。今から三年前に発行されたもので、本棚の一番下の段に私が置いていたもの。
パイプ椅子から腰を上げ、それを手に取った彼はまた戻ってきた。古びた椅子が音を立てる。正面に座った彼が、その部誌をぱらぱらとめくりながら、悪戯を思いついたような、奇妙な表情を浮かべた。

「俺たちが発行する部誌には、宇宙人の話でも書くか」

「宇宙人」

「そう。俺の夢を参考にして。原案は俺で、文字に起こすのが長門。どうだ」

「フィクション」

「フィクションだ。勿論俺の夢なんだから。どうだ?」

「ユニーク」

「そうか。よし、これで秋の文化祭の出し物は決まったな」

ぱたりと閉じられた三年前の部誌は、誰が書いたかもわからない長編の物語が記載されている。タイトルは、“少女の憂鬱”。自分の願望を実現してしまう、神にも等しい少女と、どこにでもいそうな少年と、それを囲む超自然的生物の物語。少女と少年はただの人間で、もう二人の少女は未来人と宇宙人、もう一人の少年は超能力者という、どこにでもありそうな話だった。
物語は、宇宙人が暴走して、かみさまを殺して、終わる。

「ああ、だったら、今夜の夢にも長門が出てきてくれたらいいのにな。実はあんまり覚えてないんだ。長門が眼鏡をくいっと上げてな、俺に自分の正体を明かすんだよ」

わたしは机の上においていた眼鏡をかけると、それを中指で小さく上げた。

「わたしは、ヒューマノイドインターフェース。人間の概念で表現すれば、宇宙人に該当する」

わたしの仕草と言葉に、彼は箸を置いて楽しそうに手を合わせた。ぱんぱんと軽く叩いたかと思うと、おかしそうにわたしを見る。

「そう、それだ、それ!夢の中の長門そっくりだ。すごいな」

「統合思念体はわたしを通して人間とコンタクトできる」

「そっくりだ!すごいぞ、長門!」

ひいひいとお腹を抱えて笑った彼は、一点の曇りも無い瞳でわたしを見上げた。本当だ、本物だ。宇宙人だ。長門はすごいな。そのやさしい言葉でわたしを褒めると、ありがとう、と言って頭を撫でてくれる。

「それで、ハイペリオンとかの本でも読んでれば最高だな」

「持っている」

「持ってんのか!」

すごい、と涙目になってわらう彼があまりに嬉しそうだった。わたしは、それだけで救われる。作り変えた世界で、あなたはただ笑っている。それでいいのだ。そのためにわたしは、すべてを作り変えたのだから。
あなたを苦しませる存在はここにはもういない。

「おもしろい?」

「面白いさ。腹が痛いくらいだ」

「そう」

彼はばんばんと机を叩くと、よし、と言って鞄の中から紙を取り出した。それから、部室に置いてあったペンを手にとって、情報統合思念体、ヒューマノイドインターフェース、と書き込んでいく。
ハイペリオンと小さく殴り書きして、その隅にわたしの名前も書いた。小さな少女の物語。少女の背丈はわたしほどで、眼鏡をかけている。髪は少し色素の薄い、ざっくばらんなショートカット。宇宙人。

「本格的に設定を考えよう。そしたら、長門は小説を書いてくれるか?」

「あなたが望むのなら」

ありがとう、と彼が微笑んだ。
宇宙人の少女を取り囲む、五人の男女の物語。彼は夢の中の出来事とは思えないような細かさで、設定を作り上げていく。神様にも等しい能力を持った少女。何の能力も持たないただの少年。超能力を保持した少年。未来からやってきた愛らしい少女。
主人公は、

「この部誌見てて思いついたんだ。これは神様である少女がメインだけど、俺はその宇宙人をメインに設定を考えていこうと思う」

「なぜ」

間を挟まない私の質問に、彼は数回瞬きをして、自分でもわからない、と呟く。

「でも、なんかこの部誌では、宇宙人が悪者みたいになってるだろう。どうしても、俺にはそう思えなかったんだ。宇宙人が優しいやつにしか見えなかったんだよ。だから、かな」

「…………そう」

長門はこの宇宙人を悪いやつだと思うか?
と、聞かれて、わたしはただわからないと返す。わたしはあなたのように多彩な感情を持っているわけではないから。わたしの主観は頼りにならないものだから。
彼はそう気にした様子もなく、そうか、と言っただけだった。

「でも、なんかワクワクしてきたな。退屈はしなさそうだ」

予鈴のチャイムが鳴る。弁当箱を片付けた彼は、どうせならこのまま五限目もサボっちまおうか、と呟いた。独り言のように見えて、その実、私に誘いをかけていたようにも思える。

「長門は?」

まるで、一緒にサボろう、と言うような笑顔で見つめられて、わたしは食べ切れていない弁当箱に蓋をしながら頷いた。
鞄の中から取り出した本や筆記用具、軽いお菓子を机の上に広げて、彼は物語を書き始める。わたしはただそれを見つめる。誰もいないこの空間は、わたしと彼だけの秘密基地のようで、そして事実、そうだった。
わたしの目の中に移る彼は、楽しそうに笑っている。楽しそうに。笑って。

「   」

わたしは彼の名前を呼んで。
彼が顔を上げて。
どうした、と言って微笑んでくれる。

「たのしい?」

わたしの問いかけに、彼は、最上級の笑顔を。

「たのしいさ」

「そう」

そう。わたしには、それだけでいいのだ。この空間にいて、彼が笑っていてくれるだけで。
この世界を守っていきたいと思う。彼を悲しませるものから救ってあげたいと思う。芽生え始めた感情を、もっと育てていきたいと思う。戒めはどこにも無い。変わらず統合思念体はいるけれど。自律進化の可能性を秘めた人間はどこにもいない。あなたを縛るものはない。だから。わたしは。
ずっと彼と一緒にいる。彼が望むままに。彼がわたしを必要としてくれるのならば。そばにいて、あなたを守り続けるだろう。ずっと。ずっと、一緒にいる。

「宇宙人がいたらいいと思う?」

「…いや。別にいいさ。今の平和な生活が、結構好きだからな」

「そう」



二人だけしかいないこの空間で。










20080305/貴方と私、二人の世界
(ある意味世界に二人しかいない)