よくない気配がする。少なくとも僕はそう思った。
少なからず長門さんもそう思っているのか、普段はそのまなざしを一点の迷いもなく書物に向けているのにも関わらず、今日は時折顔を上げては彼を見上げているようだ。
朝比奈さんは火を見るより明らかで、その整った顔を不安げに歪めておろおろしている。止める術があるなら今にも突っ込んでいくのだろうに、術が無いから傍から見ていることしかできないのだろう。
一方の僕も、止めたいのは山々だったが諸々の事情により無理だった。機関の方針に真っ向から逆らうことになる。僕個人からすると今すぐにでも彼の味方に立ちたいところなのだがそうもいかない。
歯がゆい思いを拳にこめて、僕は二人のやり取りを眺めていた。
やり取りと言っても、一方的に涼宮さんが罵倒を口にしているだけだ。腹が立つことが今日はたくさんあったのだろう。少なからず僕は涼宮さんに精神的影響を受ける。こんなにも僕がイライラするのだから、涼宮さんの苛立ちはどれほどのものか計り知れない。
そしてそれを受け止めている彼のイライラも、どれだけのものなのだろう。有り体に言ってしまえば彼は巻き込まれただけのただの人間だ。僕はこの目で彼の心の広さを見てきたけれど、彼だって限界というものはあるのだろう。
そして今の彼はその限界を迎えているらしく、常に無い無表情を完璧なものにしていた。無我の境地ともいえるような完璧な無表情。ぞっとするほど冷たい顔を、涼宮さんは見えていないのだろうか。いや、見ていない。ひたすらに彼への罵倒を紡ぎながら、パソコンの画面を睨みつけている。

「聞いてんの、キョン。ねえ、どうして不思議なことは起きないのかしら。あたしたち、結構いろんなことしてるじゃない。その成果が現れないのは何のせいだと思う?」

「知らん」

「あんたって、つくづく生意気よね。口の利き方がなってないわ。あたしは団長であんたよりも偉いのよ。そういう態度があたしを不思議から遠のけていくんじゃないのかしら」

「違うだろ」

「違わないわよ。あんたが愚鈍だから宇宙人も未来人も超能力者も来てくれないんだわ。こんなバカがいるところに姿を見せるなんてバカバカしい!きっとそう思ってるのよ。なんであんたはそんなにバカなのかしらね」

「知らん」

「ああやっぱり口の利き方なってないわ。あんたってほんと学ばない人間よね。どうして学ばないの?有希もみくるちゃんも古泉くんも頭が良くて物分りがいいのになんであんただけアホで取り返しのつかないバカなのかしら。あたしはそれがわかんないわ」

「言ってろ」

「やっぱり学ばない!ていうか、あんた人の話聞いてんの?あたしの偉大で壮大な未来計画のためにはね、あんたに少しでも賢くなってもらわなきゃならないのよ」

「聞いてる」

「聞いてない。あんたどこ見てんのよ。人の話を聞くときには人の目を見ろって言われなかったの?バカだからなのかしら。どうやってもあんたのバカなとこって治らないのかもね」

「……」

「返事がないじゃない。聞いてんの、キョン」

「………」

彼は無言で長机の木目を見ていた。僕がオセロに誘う前に涼宮さんと会話が始まってしまったものだから、僕は手持ち無沙汰に数学の宿題を広げている。数列を見ていても彼の目線が気になって仕方ない。どんなことを考えているんだろう。彼の手足はぴくりとも動くことなく、まるで人形が淡々と返事を返すだけのようにも見えた。
痺れを切らした涼宮さんがようやく顔を上げ、そして彼を見たようだった。彼の無気力で感情を一切捨て去ったその表情に、恐怖よりもまず先に怒りが浮かび上がったらしい。バン、と大きく音を立てて机に掌をたたきつける。

「――聞いてるの、キョン!!」

そしてそれを上回る大きな音がした。鼓膜が破れてしまうんじゃないかと思うような、強烈で耳に優しくない音だった。びりびりと空気が震えるような気すらした。
彼の、あまり傷のついていない温かくて優しい掌が、ぎゅうと握りこまれて同じく長机にたたきつけられている。長机が二枚、彼の拳がたたきつけられた机は僕が席についているそれではなかったのでそれほどたいした衝撃は無かったが、何よりも僕は、彼の顔が。

「俺はお前の奴隷じゃねえんだよ」

今、渾身の力で長机を殴りつけたとは思えないような、底知れない無表情で。
あっけに取られて薄く口が開く。長門さんが静かに本を閉じる。朝比奈さんが盆を落とす。涼宮さんは、凍りついたように動かなかった。
彼はゆらりと立ち上がり、ただでさえ脆いパイプ椅子がさらに壊れるかのように力よく畳むと、それを地面にたたきつけた。少し距離が離れていた朝比奈さんが、「ぴゃ」と声を上げる。普段はそんなことしようものなら「朝比奈さん、すみません」とすぐに謝罪に行くだろう彼は、何も言わずに背を向けた。

「……うんざりだ」

静まり返った部室に響く低い声。彼は鞄を片手に部室から出て行く。長門さんは本を長机の上に置いた。朝比奈さんはきょんくん、と小さく呟いた。涼宮さんは動かない。

僕は。





無我夢中で追いかけると、体の芯がびりびり痺れた。今僕は、神様に背中を向けている。どくんどくんと心臓が鼓動を打つ合間合間にかすかな恐怖が混じっていることから、きっと今、涼宮さんは恐れているのだろう。なにごとも省みない少女なのだ。たったひとりの好きなひとに、構ってもらいたくて仕方ない。不器用なりに相手を傷つけて、嫌われたくない、なんて。
理不尽で身勝手、唯我独尊で、なのにただの少女。そんな神様に好かれている彼。彼がもっと、ひどい人だったら涼宮さんも少しは違ったのかもしれないのに。

彼はすぐに見つかった。部室棟の一階、今にも廊下を曲がろうというところで、腕を伸ばして捕まえる。てっきりすごい勢いで振り払われると思っていたものだから、すんなり力を抜いた彼に驚いた。
振り返りもしないで、誰に掴まれたのかわかったのだろうか。
ああでも、SOS団の中でこんなに手が筋張ったおんなのひとはいないから、きっとわかっていたんだろう。だいじょうぶですと耳元で囁く。彼女は、きっと。不器用でどんな風に甘えたらいいのか知らないんです。感情をぶつけられるあなたの苦しみを、わからないんです。わかろうと思えない、最初から考える次元が違うおひとですから。

「だから、」

振り返った彼はぽろぽろと涙を流していた。ああ、ほんとうに、かれは。僕の浅ましい感情などなにひとつ知らない、やさしいひと。僕はあなたに優しくしたい。すべてを押さえ込んでしまうあなたの悲しい器を、この手で守ってあげたい。願うよ。

「泣いてください」

どうぞ。好きなだけ泣いて。震える頭を抱え込んで胸板に押し付ける。誰かが追いかけてくる音など聞こえなかった。例え神様があなたを嫌おうと、好こうと、囲おうと、僕はあなたにだけひとしく愛情を注いでいこう。そしていつか、僕のことを、少しでも気に掛けてくれたら、なんて。
ひっく、と震えた肩は思った以上に小さかった。

とても、いとおしかった。










20080329/そのすべてを愛している
(溜息のハルヒがすげえ嫌いでした)