ピアノの音がする。
わたしの耳に入り込んでくるそのたどたどしく美しい旋律は、次第に悲しそうなものに変わっていった。
誰がこんな悲しい音色を奏でているんだろう。その悲しみを少しだけでもいいからわたしに移してあげたい。わたしは今とても幸せで、だからちょっとの不幸なんて重荷にもならなくて、つまり、だから、わたしはその、悲しそうな人の苦しみを吸い取ってあげたくて。
わたしはその人を知らないけれど、その人が悲しいと私がさみしい、ということだけは知っていた。
階段を一番飛ばしで上がりながら音へと近づいていく。ぽっかり空いた穴のような空虚な気持ちが、音色の端々に見受けられる。絶望を奏でてと言われたらこんなふうに奏でるのだろう。まさに絶望。望みが絶たれる。なんて悲しい音。

光が差している廊下に出ると、わたしはまた耳をすませた。道は左と右に分かれている。けれどなんてことだろう!音は左右、両方から聞こえてきた。こういうのを何効果っていうんだっけ。それはいまはどうでもいいけれど、わたしはどちらに行けばいいんだろう。私はそっと瞼を伏せた。瞼の裏に浮かんでくる情景をたよりに、私は右に進む。進むと、音がだんだんとちいさくなっていった。もしかして左だったのかな、と思いながら引き返そうとすると、突然背中から大きな音が聞こえる。わからない。わたしはもう、ままよ、とすべてを投げ出して廊下を進んだ。
先にあったのは簡素な扉で、銀でできたドアノブがそこにぽつんとあるだけで、余計な装飾がなければプレートもなかった。ゆっくり触れる。熱源がそこにあるかのように、銀のドアノブはあつかった。掌が焼けてしまうと思うような温度。わたしはゆっくりドアノブをひねり、中に入る。ああそういえばノックをし忘れていた気がするわ。

中には何もなかった。
わたしはぽかんと口をあけて、うろちょろと部屋を歩き回る。四方真っ白な壁紙で包まれた何もない白い部屋。わたしの靴のヒールがかつんかつんと音をたてるだけの簡素な部屋。もちろん、ピアノがなければ人間もいない。
なのに耳にはかなしい旋律が今も入り続けている。これはなに?曲は留まるところを知らない。うたうような音がわたしの耳に入っては鼓膜を震わせて出て行く。

『鍵を』

ふいに、そんな声が聞こえた気がした。
かぎ?かぎってなに?扉に備え付けられたプライバシー保護のもの?でもわたし、そんなもの持っていない。ポケットに手を入れようとしたらわたしの着ている服はポケットの一切ない黒いワンピースだった。白い部屋とわたしの服、コントラストがわたしの目をちかちかと痛めつける。
かぎ、かぎ、鍵。なかったかしら。思い出せそうな気がするのだけど。瞼を伏せて思い描くのは誰かの顔。そのひとはとても優しそうな笑顔を浮かべていた気がする。ああそう、わたしはこのひとが傷つくのがいやだったのよ。

あれんくん。

わたしが唇をたどたどしく開いたその瞬間、音色が高く高く駆け上っていった。絶望的なワンシーンから脱却するように、しあわせをかみしめるように!ありがとうありがとうと、全くわけのわからない賛辞を耳に入れながら、わたしはひたすらアレンくんの名前を呼び続けていた。このピアノが幸せの音をかなで始めたからきっとアレンくんも笑っているはずだと思った。そんな私の目の前で、誰かが現れて手を振った。わたしは振りかえした。そのひとはとても鮮やかな赤色を放つ髪の毛を小さくゆらしていたと思う。そして、わたしの掌を、アレンくんが。

「リナリー」

わたしの名前を呼んで、そして嬉しそうに微笑んで、ぴたりとピアノの音は止まって。
ぼうっとアレンくんを見上げたわたしに、アレンくんはありがとう、と呟いた。
なにが、と、問いかけようとしたとき、ふいにわたしの手を握るアレンくんの手がひどく冷たいことに気付く。ピアノが、ぽろんぽろんと悲しそうな音をかなで始めた。心地良い音色が一転して心ざわめく旋律に。アレンくん、どこに。

「さようならです、リナリー」

さようならって、どういうこと?
小さな子供がばんばんと乱暴に手を鍵盤にたたきつけたような音で、アレンくんの手が離れていった。いったいどこに。視線を移すとさっきの鮮やかな髪のひとが立って、アレンくんを手招きしていた。まって、あなたが連れて行くの。もうちょっと待ってよ。さよならしたくない。
だけどアレンくんはおだやかな笑顔でわたしを一瞥したあと、赤い髪の人の胸に飛び込んでいった。白い部屋に浮かび上がる幸せそうな笑顔。さようならのこえ。

「リナリー、どうか幸せに」

しあわせって、なに。
手を伸ばしたら、静かに振り払われた。ぼくにさわってはいけません。きえてしまいますよ。それはわたしかはたまたアレンくんかはわからなかったけれど、恐らくアレンくんだったのだろう。ぽろぽろと崩れるようにアレンくんは崩れていった。

どうか幸せに。






目を覚まして広がった光景は、わたしのなまぬるい思考を溶かすように残酷で残忍だった。
広がる赤い色の中に、黒いコートがぷかりと浮かんでいる。寄り添うような白と赤のコントラスト。それから静かな風の音。手を伸ばして触れた赤は、とても温かかった。涙が出るくらいに温かかった。
溢れてくる涙は、その赤より冷たかった。わたしの掌に付着した真っ赤な色を落とす塩水を、わたしはただ呆然と眺めていた。そして今更思い知ったのだ。

さようならです、リナリー、どうか幸せに。


わたしだって、あなたたちにしあわせになってほしかったよ。










20080329/そこはしあわせのくに
(幸せの終着点は死)