彼が悪いわけでもなく彼女が悪いわけでもないということはいくら阿呆な俺でもわかっていた。
記憶の残滓すら残らないような完璧な抹消をわが身に食らったときも、ああ仕方ないな、くらいにしか思えなかった。だって俺のせいだ。俺と、正しく言えば彼のせいでもあるのだが、それは仕方がないように思う。唯一の常識人である俺が止めればよかったのだ。彼の行動を止めればよかった。俺が制止することもなく野放しにした結果が今、こうして俺を戒めている。するすると糸がほどけていくような感覚が襲う俺の体に、小さな光が灯っていった。なんときれいなことか。自分が消えるときにこんな綺麗な図を見ることができるなんて、俺くらいしかできない体験なんじゃないのだろうか。それともこれは、彼女の慈悲か。せめて安らかに消えよと、そういうことなのだろうか。
いつまでも好きです、あなただけを大切にしますと、そう言った口が今は違う人間の名を呼び、俺のことなどかけらも覚えていなくとも、俺は彼を責めなかった。神の力とやらを知っている俺には、怒ることなどできもしなかったのだ。俺を覚えてくれていないなんて、と責める余裕すらなかったというのが本音だ。こうなってしまえばきっともう何もかもが元には戻らない。俺は変なところでそういった、何ものも達観してしまう節があった。
お別れくらいはするのが常識とは思ったが、そもそもこの状態が非常識な上、俺の姿を見える人間などどこにもいないのだから挨拶をする必要性も感じない。俺の姿を見える人間なんてどこにもいない。とても大切なことなので二度言っておく。うちの母親でさえ、妹でさえ、父親でさえ、俺のことを忘れた。今では俺の部屋は寂しい物置となりはて、妹はたった一人の子供と大事にされている。いいじゃないか。おにいちゃんはいなくなるが、お前だけは、いつまでも元気でいてくれよな。見守ることができなくてごめん。一回くらいはまともにおにいちゃんと言って欲しかったが、それすらも叶わないのは、少しだけ辛いな。
元気で。オフクロもオヤジも健康でいて。俺みたいに消される必要のない、円の中から外れたたいせつなヒトたちだから、ずっと元気で居てくれよ。
俺の名前が外された郵便受けのプレートを見つめ、俺はそっと微笑んだ。寂しくないといえば当然うそになるし、寂しくてしかたないといえばそれもうそになる。適度に寂しい。涙は出ない。あっけに取られすぎて泣く余裕もないのだ。俺は声を上げて泣き叫ぶということもできない。
もうきっとこの坂を上るのも最後になるだろう、とあの長くて最低でいつだって憎んでいた坂を上る。俺たち生徒に踏まれ続けたコンクリートを一歩一歩確実にやわらかく踏みしめながら進み、そこから見える景色を網膜に焼き付けた。忘れない、なんて言ってもいずれ忘れてしまうだろうし、すぐに記憶ごと消されてしまうのだろうから、見ていても意味なんてないのかもしれないけれど。
部室まで行けれたら文句はないのだけれど、と思いながら進むが、光の浸食はもう全身まで及んでいた。発光する体を見下ろし、そろそろ潮時なのだろうと静かに察する。こうして光って、そしてぱちんとはじけて消えるのかも。それともじわじわとこれから光を失って、体が消えていくのかも。そのどれでも構わないが、もうきっとここから先へは進めないだろうな。最期に神様、もうちょっとくらい慈悲を見せてくれよ。皆の顔が見たい。俺を消すお前と、愛らしい先輩と、頼もしい同級生と、ずっと好きだった恋人の。欲を言えばクラスメイトの顔を見たいと思わんでもないが、そこまでの我儘は言わないさ。
ぱちりと瞬きをするたびに地面にしみができていく。涙が出ているのかもしれない、そう思ったけれど、それはただの雨だった。しとしとと体の表皮が湿るような雨だ。なんだ。俺が泣いてるのかと思った。雨脚が強くなりはじめて数秒後、くすみはじめた世界に一人の少女が飛び込んでくる。
飛び込んでくる、というよりは、しっくり溶けるようにそこに現れていたのだ。わからない。この寒い時期に、雨に打たれながら。風邪をひくぞと言ってやりたかったが、きっと俺なんか見えていないのかもしれない。それから数秒遅れて、残りの面子がやってくる。しとどに濡れたざっくばらんなショートカットをかすかに揺らせながら、少女は俺の元へふらふらと歩いてきた。
「有希、どうしたの?風邪引くわよ」
「ふええ、長門さん、どうしたんですかぁ」
「すみません、僕たちが何か、怒らせるようなことをしてしまったのでしょうか……」
三者三様の態度と言葉で長門に声をかけているが、長門はわき目もふらず俺の元へと。小さな手足が白く、青白く、俺はそれに寒気すら覚える。ああ、長門よ。人間じゃなくなるというものは、こんなに怖いものだったのだな。俺がそっと手を伸ばすと、長門がその手に触れた。温度なんて微塵も感じないし、触れられた感触すらなかった。
「 」
ぱくぱくと小さく開く口は、どうやら呪文のようだ。あの高速の呪文。いいよ、もう、いいよ。お前が情報統合思念体に怒られてしまう。俺はそれをよしとしない。俺のせいでお前が怒られるのなんか死んでもごめんだ。今から死ぬけど。俺のために力を使う必要なんてないから、いいよ。お前が俺を見えているっぽい、それだけでもう十分だ。
「待って」
雨の音にまぎれるように長門の声が発せられる。ハルヒは首を傾けてこちらにやってきた。俺を見えない神。俺を消す神。たった一人の少女。ずっと隠しててごめんな。ずっと騙しててごめんな。でもごめん、俺はずっとあいつと一緒にいたかったんだよ。例えお前を、騙してでも。
「待って。まだ行かないで。あと少し、まだ」
長門にしてはブツ切れの、曖昧で中途半端な言葉が吐き出されては、ハルヒの顔が怪訝に歪んでいく。その背後でわけがわからないとばかりに目を瞬かせるかつて恋人だったヤツは、やはり俺なんかを見えては居ないようだった。
長門。大丈夫だから、長門。お前がそこまでしてくれなくたっていい。俺は大丈夫だから。あ、多分、そろそろなくなるな。体が軽い。信じられないくらい、安らかだ。こういう最期を送れるっていうのは、結構幸せなことだと思うぞ?安心して、何を安心すればいいのかとかわかんないけど、とにかく、大丈夫だから。長門、ありがとう。ハルヒ、ごめんな。朝比奈さん、お疲れさま。
古泉。
さようなら。
突然顔を上げて、はじかれたように走り出した長門さんを追いかけたのは涼宮さんだった。
雨が降り始めたらしい外の景色が、どんよりとしていて僕の気持ちも落ちる。憂鬱に感じられる雨の湿気加減を身に受けながら、朝比奈さんを伴って部室を出た。
傘も持たずに外に飛び出していく長門さんを涼宮さんが呼びかけながら追いかける。途中、傘立てに立ててあった名も知らぬ誰かの傘を引っつかみ、それを差して追いかけていく背中をさらに追いかけた。
男一人に女三人という中途半端な数で構成されているSOS団の中で、長門さんは唯一の無口キャラだ。というよりは、SOS団にいる皆すべてが唯一独自のキャラを持っている、というのか。少なくとも長門さんは物静かでいつも本ばかり読んでいて、いきなりこんな行動に出たことなどなかった。本の影響でも受けたのだろうか、なんてことを考えながら走り出す。長門さんは存外早く立ち止まり、通学路でもある坂にぼうっと突っ立っている。びしょぬれのカーディガンは黒く色を変え、白い指先は虚空に向けられていた。誰かの手を握っているようにも思える。
「待って」
何を待つというのだろう。
涼宮さんが振り返り、僕を見る。僕は首を横に振る。意識が追いつかないし、わけがわからないからだ。長門さんは今にも何かが飛び出てしまいそうなくらい大きな瞳を揺らめかせ、再び口を開いた。
「待って。まだ行かないで。あと少し、まだ」
長門さんが立っているその少し前。何もない空間が、妙にぼやけて見えた。もしかして幽霊とか、そんなものなのだろうか。まさかな。長門さんは唯一の無口キャラでありながら、おまけに霊能力を保持していたとでもいうのだろうか。僕はそれでも驚かないけれど。
ふいに、ぱちん、と何かがはじけるような軽い音がして、長門さんは絶望に打ちひしがれるような表情を浮かべた。虚空に向けていた手をだらりと垂れ下げ、その場にがくんと崩れ落ちる。その時僕は、信じられないものを見た。
長門さんが、泣いている。
雨のせいでそう見えているかもしれないと思ったのだが、それだけではない。泣いている。ぱたぱたとアスファルトに落ちて溶けていく雫は、壮絶なほどに美しかった。
「さようならなんて、嫌」
さようなら?
誰とさようならをしたというのだろう。
首をかしげる僕に誰も答えを教えてくれない。
だけど、なんだか胸にぽっかりと穴があいたような、そんな気がする。
20080411/さよならを言わない
(いえない)