彼女が、僕の知らない誰かと杯を傾け合わせていた。
「―――――ッ………」
寝苦しい春の夜。中途半端に茹だった頭で、今しがた見ていた夢の名残をかき集める。僕は、なんて夢を見ていたんだろう。まさに悪夢。言葉にすると実にしっくりきて、今まで僕が口にしていた悪夢が、随分かわいらしいものに思えてくる。
「最悪だ………」
最悪。もっともわるい。
夢の中での彼女は、僕に見せないような綺麗な笑顔で、心から相手を信頼しきった表情で、白く細い指に銀色を輝かせて。
悪い夢と表現するにはあまりにおめでたすぎる夢だったけれど、それは僕にとっての悪夢でしかなかった。どうせなら、相手方は僕であればよかったのにと思わざるを得ない。僕の知らない誰か。その隣で笑う彼女。何よりもまず先に、悲しみが先立つ。
恐ろしいことに、呼吸まで乱れていた。どれだけ息を止めていたのだろう。急いで空気中の酸素を取り込み、吐き出す。慌てたときにはまず深呼吸をしろと言った人間は偉大だ。凪いでいた気持ちが徐々に治まり始める。
「……こいずみ?」
僕の落ち着いた心臓を再び脅かす小さな声。
どくん、と脈打った手首を、白い指先がとらえた。先ほどまで銀色がにぶく光っていた指。僕にとっては悲しみの塊でしかなかった指。
ほとんど無意識に、彼女の指を絡めとった。いつになく乱暴な動作で、振りほどけないくらいにがっちりと。驚いたらしい彼女が目をぱちぱちと瞬かせるけれど、怒りはしない、解きもしない。多分僕が常にない行動を起こしたからだろう、怒りよりもまず先に心配が先立ったらしい。起き上がって、片方の手を僕の頬に添えた。
「どうかしたのか」
寝起きのせいで舌ったらずな声音に安心して、ふにゃりと笑顔を浮かべる。あんまりに間抜けな笑顔を晒していたのだろう、彼女は呆れたように息を吐いて僕にもたれかかってきた。「病気になったかとおもった」それはないと思いますけどね、と一言。健康診断でも異常なしだったし。急性の発作を起こすような事例は今までにもなかったし。
強いて言えば、あの夢で心臓が止まりそうになったくらいだろうか。
「夢?」
「ええ。あなたが白無垢を着ていたんですけどね」
僕の発言に彼女は大げさに肩を震わせて吹き出した。お前、そりゃねえよ、と。あったのだから仕方がない。でもそのほうがおれらしいかもなと軽快に笑った彼女の隣にいたのは僕ではない。
「てーことは、お前が紋付袴か。にあわね……」
当たり前のように僕を新郎側に置いてくれたことに感激を覚えるが、残念なことに夢の中では僕は登場しない。ストーリーテラーのようなかたちのない存在としてそこに在中していただけだ。
思い出すとなんだか腹が立って、つい彼女にしても意味の無い八つ当たりをしてしまう。
「あなた、僕の知らない誰かと結婚式を挙げていたんですよ」
「はあ?」
ころりとベッドに寝転がった彼女が、なに?と聞き返しながらこちらに向いた。鳩が豆鉄砲を食らったような表情をしている。でも本当だ。僕だってできることなら幸せな夢を見たかった。それでも見てしまったのだから仕方ない。今すぐにでも記憶を(新郎側を僕にかえて)上塗りしたい気分だけど、夢のコントロールまではできないし。
「なんだそりゃ。俺の知ってる奴か?」
「知りませんよ。とにかく僕の知らない誰かです。ものすごくなかがよさそうでした」
「そりゃー結婚式挙げてんだからな」
たかが夢の内容、と彼女は気にしていない様子で、僕の膝をぽんぽんと撫でる。白い指。夢の中身があまりに鮮明に僕の脳みそから飛び出そうとするものだからやりきれない。三々九度の杯も、銀色に光る指輪も、誓いの詞も。なにもかもがいやになる。
「指輪だって、はめてました、ここに」
彼女の白い指先を掴んで、その根元をきゅう、と握った。彼女は嫌そうな顔をした。
「最近の和装式っつーのも指輪交換するんだな」
「しますよ。シンプルで、あなたが好きそうなデザインでした」
「しるか」
あんまりにばっさりと切られたものだから悲しくて、彼女の上に馬乗りになる。ぎゃあやめろいまなんじだとおもってんださんじだぞ、と喚く唇に人差し指を置いた。だって悲しかったんだ。あなたがぼくのものではなくなったんだと、妙な喪失感まで感じてしまった。涙が流れる感触までしたような気すらした。めまいがしそうな痛みだった。
「こんな思いしたくないです」
「しらねーよ!」
夢の内容にそこまで気を傾けるなと怒られたけれど、だってほんとうに悲しかったのだ。もし僕の立場に彼女が立ったとき、僕と同じような感想を覚えてくれるだろうか?今まで自分の腕の中にいたと思っていたひとが、いとも容易く他の人間の腕の中にいる、もしくはもう二度と触れない場所に。
二度と。
「結婚しましょう」
「はあ?」
「結婚。しましょう。来週でもいいです、今すぐにでも」
「急すぎる」
「何から何まで僕が準備します。もうこの際あなたと結婚できるなら和装も洋装も問いません。チャペルでも神前でもお好きなように。お金も僕が出します、あなたは嫌がるでしょうけど、とにかくもう結婚しましょう」
「待て。待てとりあえずお前そのプロポーズは最低だぞ」
深夜3時。情事後のベッド。くしゃくしゃのスーツ。一方は半泣き。一方は寝ぼけなまこ。まあ最低と言えば最低かもしれないけど。
「でなおしてこい」
憤慨した彼女にベッドから蹴り落とされた。
ちょっとだけ冷静になった。
20080502/祝福なんかあげない
(あほいずみ)
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