剃刀を手にした指先が、躊躇もなく、震えもせず、淡々と手首に向かって動いていくのを見ていると、いよいよそれが現実味を帯びてきて、止めても思い切り脈に刃を立て、ざくりと音を出し、赤い血潮を噴出させるのではないのかと思えて、すうっと背筋が冷えていった。
止めるに相当する理由がそこにあるので、俺はもちろん何してるんだと怒鳴り、手を伸ばし、その今にも触れてしまいそうな刃を掴むか、あるいはその刃を意のままに操る腕を掴むか、そのどちらかをしてもいい、するべきだったのだが、俺はなぜか呆然としてしまって、その光景をスローモーションビデオを見るかのごとく見送ってしまったわけだ。
ぷし、とやわらかい音が聞こえたと思った。同時にじわじわと刃先から赤い何かが滴って、刃を押し付けたままの白い肌がきりきりと震える。脈が切れたのかも解らない、ただ切れていても不自然ではないくらい奥深くにしっかりと入り込んだ鈍い色のそれは、音も立てずにゆっくりと離れていった。秒を置いて、噴き出る赤。噴水とまではいかなかったが噴き出た。笑えた。
「痛くない?」
「まあ、それなりには」
ですよねえ、とのんびり声にして、俺はようやくそこではじめて手を動かす。凍えたみたいに動かなかったはずの指先は軟体動物も真っ青の滑らかな動きでもって、血が噴き出るそこに真新しい、ポケットに入れていた最後の一枚のガーゼを押し付けた。その上からぷんとにおう消毒液をどばどばと振り掛ける。消毒液の風呂にでも入れたらこいつは頭の隅から隅まで綺麗になるんじゃないかと思えるくらい、寧ろそれを意図としてかけているのではないかと思われるくらい派手に消毒液をぶちまけた。ここまでする必要は無いのでは、と下から聞こえた声は右耳を通って左耳、あるいは左耳を通って右耳へと流れていく。そんで落ちる。
「絆創膏、絆創膏……」
「多分範囲的に、足りないんじゃないかと。ガーゼの部分が」
「じゃあ、ガーゼ」
「ここに押し付けてるのは何ですか」
ガーゼですね。
落ち着いた頭で考えて、そっと手を放した。どぶどぶに濡れて赤くにじんで、それでも滴る液は透明すぎる白のガーゼを見下ろして、その上からペーパーテープを貼り付けても多分ついてくれないだろうなあと考える。めんどくさいから包帯でぐるぐるに巻いちゃろうかな、でも多分消毒液でしっとり濡れて重くなるに違いない。
「医務室行きます」
「どう言い訳すんの」
面倒を体現するかのようにソファに背を預けると、そいつは振り返ってさあ、どうとでもなるでしょう、とのんきなことを呟いた。明らかに刃物で出来た傷で、しかも消毒済み。ここはホームで、食堂でもないところから向かってきたこの男を、医務室のやつらがどんな目で見るのかは想像がつかない。手が滑っちゃって、では許されないレベルの傷の深さは見ているだけで痛々しい。
ついてっちゃろか、とはいえなかった。一緒にいる俺がやったと思われるのだけはご勘弁願いたかったし、俺は無実だとは叫んでも怪我をした当人がこのひとにやられたんですと言えば俺は白眼視されるに違いないと思ったから。言うはずはないと思っていたけれど、万一のことを考えて。
「じゃあ、放置します」
「多分、死ぬぞ」
「どんとこいですね」
さらりと流すみたいに言われたものだから、俺は比較的右手の近くにあった目覚まし時計を放り投げた。がつんと音がして跳ね返ったその時計は、床の上に激突して大破する。避けた当人は何してるんですかと怒りをにじませもしない声で言って、壊れた破片を傷口に押し当てた。またにじむ赤。
「ラビ、君は少し、僕に構いすぎですよ」
「死にたがりを放っておくよりいいさ」
「余計なお世話って、知ってます?」
冷めたような置いていかれた子供のような表情でそいつは言って、俺に手を伸ばした。赤のにじんだ手首。首を絞めてください、きっとこの痛みを忘れられるでしょうから。(そして世界の何もかもを)俺は同じように手を伸ばす。
首のかわりに胴体を抱きしめた。死体みたいな温度だった。
20080808/死にたがりに赤
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