子供が出来たから学校やめる。確かにそう聞こえたと思う。その言葉が聞こえた瞬間に僕の瞳孔はかるく開いたに違いない。持っていたポーンを盤上にたたきつけて真正面に座る彼女を見た。
「何してんだ、マスずれてる」
彼女はそう言って何事も無かったかのように白い指を動かし、若干升目からズレたポーンをちょいとつまんで移動させた。そこでようやく僕の心臓が、首周りが、腕が、ひどく脈打っていることに気付く。視界が赤く滲んだように思えた。錯覚だったのかもしれない。ただ突発的な何か、感情が強く色濃く脳を刺激して、頭の中が真っ白になったのに、赤く滲んだという表現はおかしかったかもしれない。感情の名前は憤慨だったかも。
「どういう、ことですか」
「なにが」
何事も無かったかのようにナイトを進ませた彼女は、お前の番、と言ってそれきり口を閉ざした。夏場なのにどこか荒れている唇。最近よく眠れないと誰かから聞いた。ご友人の国木田氏だったか。授業中に寝ているようだけど目の下の隈は隠しきれていないよねと同意を求められ、狼狽しながらも頷いた記憶。
普段は化粧なんてしないのに、部活に出るときだけはコンシーラーで目元をうまくカバーしているようだった。気付かなかった、こんなに近くにいたのに。ずっとずっと見ていたのに。夏場だからすぐ崩れる、だからあんなに頻繁にトイレに行っていたのか。僕は知らない。知らなかった。何も。
「子供、って」
ぽつりと呟いた言葉は僕の意思には関係なく震えていて、低く掠れていた。彼女はああ、と呟いたきり、また何も言わないまま。報告を受けては、いた。涼宮ハルヒと彼女の間にそういった関係ができたということは。ただ僕が見た限り、彼と彼女の間には恋情はなかったかのように思える。常に殺伐としていて、彼はとにかく、彼女はまるで興味が無いように振舞っていたから。
それは僕の思い違いだったということだろうか。詳しく問い出しておけばよかった。でも違う、機関からの報告によれば、彼女は拒否の色を濃く出していたのだとか。それでも彼が無理矢理、そういったニュアンスのことを聞かされなかっただろうか。
もしそれで彼女の子宮の中に彼の遺伝子が放り込まれたのだとしたら、それはひどくひどく、とても、かわいそうで、悲しいことだと思った。というのは僕の建前で、ほんとうは、本当は憎くてたまらなかった。彼が。彼女が抵抗できないのを良いことに、無理に持ち込んだ情事で、そして、そして。
目の前が真っ赤になって、手に握ったクイーンがぎりぎりと音を立てた。室内に彼はいない。朝比奈みくると長門有希を従えて校内撮影会に出ると言って出て行ったきり。それが今は正直、ありがたいけれど。
彼女の表情は通常営業のままで、特別取り乱したり、特別空元気に振舞ったりという様子ではなかった。ただそれが、僕に不気味なほどの何かを齎した。何故泣かない。何故嘆かない。何故絶望しない。もしかするとあなたは、彼の子供が欲しかったのかと、そんなことすら思った。
ぎりぎりと音を立て続けるクイーンを見た彼女は、指先をちょいと伸ばして、僕の親指の付け根あたりに触れさせた。それだけでぽかりと力の抜ける手指に驚きつつも、ゆっくり顔を上げる。彼女は感情を感じさせない表情で僕を見ていた。真正面から。そのあまりにもまっすぐな瞳に、重圧をかけられたかのように僕の肩が強張る。
「古泉」
「は、い」
クイーンがころころと転がって落ちた。カツンという音がして、それでも僕は手の中に何かを握っているような気持ちがして、ゆるやかに指先を丸める。
「嘘だ」
「、は?」
その指先が硬直して、軽く目を見開いた。――う、そ?ようやく頭の中に入り込んできたその言葉と、その意味を汲み取って、強張っていた肩がかくりと力を失う。うそ。ああ、嘘。嘘。
「……何故、嘘を」
冗談ではなく本当に、本当に体中の毛穴が開いて、なにかにこの抑えようもない衝動をぶつけてしまうところだった。何故嘘なんかを。冗談にしては性質が悪すぎるそれを、彼女が容易く口にしてしまうとは思えなかった。だから余計、何か本当は伝えたいことがあるんじゃないかと、そう思って。
思って、彼女の瞳から零れ落ちたものに、また目を見開いた。
「……どうせ機関には、バレてんだろ、何もかも」
「………は」
「ハルヒとヤってる。一週間に二回程度は」
知ってます、と気軽に言える空気ではなかった。
「抵抗だってした。でも、断ったら、冗談じゃ済ませないことを断ったら、この空気とか、SOS団とか、全部どうなっちまうのかって考えて」
「……」
「……いやだったけど、この場所がなくなるのだっていやだった。全部、どうなるのかとか、おれみたいな一般人が、解る訳ねえだろ。そしたら、なし崩し的にズルズル、セフレみたいな関係になってって、SOS団は平和だけど、俺は、俺ばっかり苦しいんじゃないのかって、考えるようになってって」
「……」
「嫌だって、言ってるのに、この机に押し付けられて犯されたことも、そこの窓際で立ったまま犯されたことも、五組の教室の教壇の中で犯されたことも、ケツの穴使われたり、無理矢理口の中に入れられたこととか、そういうの、最終的にはおれが許したから、同意の上だからって片付けられるんだよな」
「……」
「ゴムとか、最初はしてくれてたけど、途中から買うのもめんどくさいって、つけるのもやめて、生理中は百パー中に出されるし、どうしても危ないってときには口と胸で処理させられるし、でもあいつはすぐに飽きて、次々色んなことやりたがる」
「……」
「ずっと怖かった」
身じろぎひとつしなかった彼女が、ようやくそこで動いた。手にしていた駒をそっと長机の上に置いて、自分の体を守るようにきゅっと両手を、自分の腕に回す。そういえば、手首とか、腕とか、腰周り。少しばかり、痩せたかもしれない。色だってずっと白くなった。血が足りないみたいに白く。紙みたいな色になった。爪は荒れて唇も荒れて、それでも口の中に時折覗く舌が真っ赤で、どれだけそれに吸い付きたいと思ったことだろう。
ずっと怖かったと、彼女は再び呟いた。瞬きひとつするたび、こぼれていく水は透明で、まるで彼女のようだと思えた。指先を伸ばして拭うには、少しばかり距離が長い。抱きしめて、もう大丈夫ですからと言うには、少しばかり弊害が多すぎる。泣かないでくださいと言うには、少しばかり彼女に与えられた負荷が多すぎた。
「怖かった。いつかあいつの子供ができるんじゃないのか、孕まされるんじゃないのかって、ヤるたびずっと思ってた。そのうちあいつが触るだけで濡れるようになってきて、おれはそんなつもり全然ないのに、簡単に解れるのも怖くて、何度も死ぬことを考えた。でもそれじゃあ、おれがあいつを受け入れた意味がなくなることに気付いて、踏みとどまるたび、でもどうしたらこの苦しみから逃れられるんだって、そうやってずっと苦しくなって、苦しくなってって」
「……」
「三ヶ月前、どうしても今日はだめだ、危ないって日に、無理矢理足開かされて、突っ込まれて、中に出されて、もうおわりだって、そう思った。生理が来なくて、もう死のう、死ぬしかないんだって、苦しくてたまらなくなった。薬局とかで、妊娠検査薬手にとって、何度も棚に戻した。ただの生理不順だって言い聞かせても、怖くて、怖くて怖くて、怖くて、夜だってまともに寝れなかった。誰に相談すればいいんだって、何度も悩んだ。打ち明けられる人間なんてどこにもいやしなかった。そのうちメシも食べなくなって、食べても吐くようになって、刃物を見たら自分を切り付けたい衝動に駆られて、格闘技をテレビで見るたび、おれの腹を蹴って子供を潰してくれとも思った。でも、腹のなかにいたとしても、そいつに罪は無いんだって、だからどうすることもできなくて、おれは」
「……」
「機関の奴らからしたら残念なのかもしれんが、一ヶ月前に調べたら陰性、だった。だからおれは嬉しくて、それだけで涙が出るくらい嬉しくて、でもそんなのあいつは知らない。おれがどれだけあいつとの子供ができなくて嬉しいか、そんなの知らない。一回目の検査じゃ不確かだから、昨日調べても、陰性だった。やっぱり嬉しくて、涙が出たんだ、おれは」
「……」
「それでもここにいる限り、あいつがおれを求める限り、おれはこの恐怖から逃れられないんだと思う。あいつに抱かれるたび、何度この場で死ねたらって、そう思う。おれはあいつと一緒には、なれないよ。幸せにもなれないし、あいつを幸せにしてやることもきっと、たぶん、できない」
少しだけ逸らされていた彼女の目が、僕の目を真正面から捉えて、ただそれだけのことだというのに背筋が粟立った。まるで誘われているようなその色に、欲情しそうになる体を理性で押しとどめる僕を、まるでお見通しのように彼女は見つめた。僕の恋情なんて駄々漏れで、彼女はどうかはわからないけれど、きっと彼は気付いている。それこそどうでもいい話で、ただ僕は、僕であれば、あなたをこんなふうに悲しませたりなんかしないのにと、そう思うことを口にしないよう、抑えるのに必死だった。
なあこいずみ、と彼女が呟く。何も知らない彼の笑い声が聞こえた気がした。はい、と返事をする僕の声は、掠れてやしなかっただろうか。確認する術も持たないのでそれについて考えるのはもうやめる。
「このままだったらおれは、いつかお前に最初に言ったように、子供ができたから学校やめるとか、そんなことを言い出すかもしれない。それが実現する日を想像するたび、おれは、逃げ出したくなるよ」
いまも。
澄んだ瞳が濁った僕を見つめて、ぱちりとまた瞬いた。滑り落ちた涙は彼女の手元の駒を濡らして、以前のセックスで彼女が押し付けられたという場所をも濡らす。僕は今彼女から教えられるまで、そんな官能的な場面でこの机が登場したことなど、ついぞ知らなかった。知っていても恐らくどうにもならなかっただろうことは解りきっているけれど、ただその事実は、僕をひどく打ちのめした。どんな思いで彼女が抱かれたのか、どんな思いで後処理をしたのか、されたのか、どんな思いで帰路についたのか、想像してもしきれない、彼女の抱えきれない闇の破片を少しばかり覗いただけで、絶望する気持ちだった。
その気持ちが少しでも頭の中に入ったことで、僕は彼女の内側に入れてもらえたようで、ひどく心地良かったのだ。彼女が僕に求める何かを想定することは不可能だったけれど、もしかするとという願望は少しばかりあった。もしかすると彼女はこう言うかもしれないという想像もした。そしてそれが実現すれば良いと思って、次に続く言葉を待った。もしあなたがこう言えば、僕はこうしましょうと、言葉まで、パターンまで、準備していた。
「古泉」
ほうら来た。続く言葉を待つ。言ってくださいと願う。もしあなたが、涼宮ハルヒを殺してくれと言うのならば、僕は喜んでこの両手を汚したし、もしあなたが、おれを殺してくれと言うのならば、彼女の両手にこの手をかけることも厭わなかったし、もしあなたが、おれを連れて逃げてくれと言ったのであれば、僕はあなたの手をとって、この小さな部屋から、逃がしてあげようと。
「こいずみ」
彼女は呟いた。
「おれを、連れて、……逃げてくれ」
泣きじゃくる彼女を抱きしめて、胸の中に収めた彼女は僕が思っていたよりもずっと華奢で、小さくて。きっと彼はこんな小さな彼女を、抱き潰したいという欲求のままにしていたのだろうと考えて、嫉妬に胸を焦がされながら。僕は彼女の痩せた手首に指を這わせ、ごめんなさいと唇を動かした。涙を流し続ける彼女に言葉をかけることなどできない、けれどそのかわりに、彼が大切にしていたパソコンを蹴り飛ばして、彼女を抱いた際に押し付けたという窓を破り、机を破壊することはできた。僕は彼女の手指に自分のそれを絡めた。逃げ切れるなどとは微塵も考えていない、僕も彼女も道中で終わるかもしれない。それでも少しのひとときは彼女と一緒に。
そして僕らは小さな箱を飛び出した。
20080816/うそつき果てまで
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