※あらしのよるにオマージュ
ひどい雨が降った。
普通はザアザアとかサアサアとかシトシトとかそういう擬音で表されるであろう雨音は、今では明らかに濁音つきの、ザアザアよりもレベルの高い音に成り代わっていて、雨というよりはほぼ雹に近く、その体に打ち付けられる痛みに耐えかねた僕は取り逃しが無いか確認して、部下に撤退を申し付けた。
ごろごろ転がる死体の後始末は面倒なので放っておく。どうせ警察が始末をしてくれるだろうと踏んで僕も部下に続いて基地に帰ろうと思ったのだが、どうにもこの雨ではまともに進むことすら危うい。だが寄ろうにも店先はすべて閉店を決め込んでおり、僕が身を寄せることを許してくれる店舗は存在しなかった。ひどいな、いや賢明な判断かと思いつつ路地に入り、雨粒だけを避けられれば十分な屋根がないか探す。
ああ、そう言えばこの先を抜けると少しだけ小高い丘があって、そこに既に住人のいなくなった小屋があるって言ってたかな。たまに住処をなくした人間がそこに住み着き、食料もないまま日々を過ごし、命を削り、腐敗していくのだと。それを管理するのが大変なんだと、何かにつけ腐った死体を処理する身にもなってほしいよと、内通している警察官が言っていた。
まあとりあえずこの雨から逃げられるのなら、死体が放置してある小屋でもどこでもなんでもいい。路地を進み、見えてきたオンボロの小屋に小走りに近づく。どこでもいいと言った手前なんだけど、できれば死体はないほうがいいなと思った。
ギイ、と音がして、扉が開いた瞬間に気管に入り込んでくる埃。うえっ、と奇妙な音が喉から発せられ、ほぼ同時にくしゃみが出る。ただでさえ血の匂いで鼻が弱っていたというのに、埃と湿気と黴くささのトリプル攻撃で気管と嗅覚がやられた。息苦しい。窓を開けたいけれど開けたら本末転倒じゃないか。仕方ないので扉をほんの少しだけ開けて換気する。手探りで壁際に触れると、さらさらとした何かが指先を掠めた。……黴だろうか。いやだな、帰ったら手を洗わないと。
カチンと音がしたので、恐らく電気を入れるスイッチに触れたのだろう。そのままの体勢で電気が点くのを数秒待つが、どうにも様子がおかしい。ぶら下がっている電球がかろうじて確認できたが、点かないとなると、これは。
「……それ、切れてんですよ。点きません」
「……!?」
急に部屋の奥のほうから聞こえてきた声に、僕はビクリと震えた。気配が、まるで無かったのだ。驚いた拍子に肩を打ちつけ、小屋が揺れる。つくりは随分甘いようだから、些細な振動でも震えてしまうらしかった。
「あ、驚かせてすみません……雨宿りですか?」
「え……、ええ。そんなところです。あなたも、ですか?」
「ええ。……学校帰りに急に振り出しちまって。すぐ止むかと思ってたら強くなるし。最悪ですね」
「はは……そうですね」
聞こえてくる声は男のものだ。声に敵意や警戒心といったものは特別感じられない。雰囲気も和やかで、僕の同士、あるいは敵対する者かと思ったけれど、どうやら違うようだ。ホッと胸を撫で下ろして、肩にこめていた力を抜く。
もしかして濡れていますか、俺タオル持ってますけど、と言われて、ありがたく頂戴した。何枚持っていたのだろう、彼も濡れたに違いないだろうに。使われた形跡の無い、清潔で柔らかなタオル。水の滴る髪や顔を拭いて、どっぷりと重たくなったスーツにタオルを押し付けた。
(あ)
もしかしたら返り血がついてしまうかもしれない。既に肩口に押し付けてしまったタオルを瞬時に取り払うが、暗い中ではそれすらも確認できなかった。でも硝煙のにおいやら何やら、色々と困るものが付着してしまった可能性は高い。いくら雨で多少は流れているとしても。
このタオルを返すわけにはいかないなと判断して、わざと指先に力をこめた。
ビリ、と言う音がしてわざとらしく僕は「あ」と声を上げる。それに数秒遅れて、同じような声が発せられた。明らかに破れた音だとわかったのだろう。申し訳無さそうな顔を作るのは得意だ。すみません、と言いながら暗闇に少しだけ差す外の明かり、そこにタオルを出して少しでも見えやすいように。
「すみません、カフスに引っかかったみたいで……」
「あ、ああ、いいですよ。どうせ安物ですし」
「また新しいものを購入して……」
多分こう言えば、相手は引き下がるだろうと思っていた。予想は違わず、暗闇の向こうの彼は焦ったように声を上げる。
「あー、いえ、いいんです。本当に安物ですから。気にしないでください」
「ではこれを……」
「家に帰ったら捨てますし、好きなように使っちゃってください」
「いえ、手間をおかけしますし、僕のほうで処分しますよ」
少し不自然な言い回しだったかな、と思いながら彼の返答を待つ。しかし彼はあまりそういったことに気を回さない性格のようで、そうですか、じゃあお願いしますと言って笑ったようだった。空気が震える。多分、裏の世界とは関係なしにまっとうに生きてきたのだろう。微塵も警戒していないような口調。
「……あ、雨がだいぶ弱くなってきましたね」
「本当ですか?ああ、じゃあもう帰っても大丈夫かな」
窓の外を見てそう言えば、彼は少しだけ嬉しそうに呟いた。初対面の人間に対してあまり緊張しないタイプのようだ。元々ここに駆け込んできたのが夕方だったのもあって、既に空は暗い。雨は叩き付けるようなものから、バケツをひっくり返した程度のものに変わっている。それでもなかなか強烈だと思うけれど。
「何か、急ぎの用事でも?」
問いかけると、彼はほんの少しだけ身じろぎして、
「いえ……、急ぎ、てほどでもないんですけど。あんまり帰りが遅いと家族が心配するかと思って」
家族。とうに縁遠くなった単語だ。
やさしいひとなんですねと言えば、彼は照れたようにそれを否定した。本当に、優しい人だと思う。優しくて、お人よしで、まぬけ。人生で大半を損して生きてるんじゃないですか、あなた。あなたみたいな人は、裏の世界で絶対に生きていけない。真っ先に死ぬタイプですよと、心の中で笑った。
「この程度であれば一応歩けるだろうし、俺、そろそろ帰ります。話し相手になってくださってありがとうございました」
「いえ、こちらこそ。……大丈夫ですか?風邪を引かれるかも……」
「はは、今更ですよ。そちらこそ、この中あんまり空気がよくないですから、体調を崩したりしないように」
「気をつけます」
彼は笑い、立ち上がる。ほぼ気配でそれを感知しながら、そっと移動した。あまり顔を見られたくは無い。
彼はちょっとすいません、と言いながら僕の目の前を通った。一瞬だけ顔が見える。短く整った前髪と、雨が流れた頬。少しだけだるそうに細められた瞳と、高すぎない鼻。薄い唇と、肉のそんなについていない顎、喉仏まで。
一般的な顔だろう。一応バランスの良い顔ではあるようだけれど、ぱっと見ただけでは印象に残らない。こういう点は非常に裏の世界に向いていますよ、あまり目立つような容姿は好まれませんから、とこれまた心の中で言って、僕はお気をつけて、と口にした。
ドアノブに手をかけた彼が振り返り、ありがとうございます、と微笑む。
「なんだか、また会えそうな気がします。あなたとは」
「そうですか?」
僕はそもそも表の世界にそう頻繁に顔出しをするわけではないから。きっと会うことはないだろうと思ったのだが、彼はどうやら違ったらしい。でもお互いの顔も名前も何もかも知らないじゃないですか、と茶化せば、彼は少しだけ考えたように口元に手をやると、またこちらを見ていたずらっぽい笑顔を浮かべる。暗い室内でもこんなにはっきり「こうしているのだろう」という雰囲気が伝わる彼は、ある意味すごい人なのかもしれない。
「じゃあ、合言葉なんてどうですか」
「合言葉……ですか?」
「ええ。まあ、会わないかもしれないですけど。もしかしたらまたこんな天気になって、ここで会うかもしれないし。普通に会ったら会ったで、こうやってお互いを確認するってことで」
「はあ。それではどんな合言葉にしましょう」
「うーん……」
まあ使う機会は訪れないであろうけれど、話をあわせておいても損は無いだろう。外はもう夜、そして雨。嵐と言ってもいいくらい。頭の中に思い浮かんだ言葉に、僕はほんの少し微笑んだ。我ながらなんとセンスのない合言葉だか。
「あらしのよるに、なんていかがですか」
「あらしのよるに?」
「ええ。ひねりが無いですけれど」
彼は再び、あらしのよるに、と口の中で転がすように言ったかと思うと、こくんと小さく頷いて、うん、わかりやすくていいですね、と言った。合言葉に複雑な文字列はいらない。それに、覚えておく必要なんてほとんど無いのだし。
今度こそドアを開けた彼は、暗い空を見上げて再びそっとドアを閉めて、覚悟を決めるように唾を飲んだ、らしい。こくんという音の後に、振り返って僕を見る。
「それじゃあ、また『あらしのよるに』」
いたずらっぽく呟いた彼に僕も微笑みかける。 もう会わないでしょうけれど。
「ええ、『あらしのよるに』。……さようなら、お気をつけて」
それを聞き届けた彼は、ドアを勢いよく開けて走り出していった。途端室内に入り込んでくる勢いのある雨。後姿を視線だけで追いかける。どこにでもいそうな平均的な体つきに、白いパーカー、そして藍色のジーンズを見届けて、そっとドアを閉めた。
20080827/AT TEMPESTUOUS NIGHT
古泉はマフィア キョンは警察官見習い
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