「ばかみたい」
流れるサティを聴きながら、ふいに呟かれた言葉に青年は手を止めた。
何十年代だったかも思い出せない、古い音源がテープレコーダーから流れている。時折混じるノイズで、余計その古臭さが際立って、ある観点から見ればわずらわしいものに思えた。また違う観点から見れば、雰囲気が出ていた。
体の下で青年を見つめながら先ほどの一言を口にした少女は、押さえつけられていた手首をじろりと睨み、解放をせがむ。言われずともと言わんばかりの動きでそろりと手を避けた青年は、またがっていた体から離れた。
「ダメね、全然ダメ」
「そうさなあ」
じーじーじわじわ、みみみみみみみ、蝉がやかましく鳴いているのを耳に入れながら上体を起こした少女は、服に寄った皺を正しながら黙りこくっていたテレビをつけた。より雰囲気が出るから、とテレビを消したものの、さして効果は無かったように思う。
サティを奏で続けていたラジオを黙らせると、青年は立ち上がった。普通直前で止められたりなんかすれば体のほてりが消えないだとか、そういうものが付きまとうはずであるというのに、いつになっても体は冷めたままだった。つまりは、彼女では駄目だったのだ。そして彼女も、彼では駄目だった。
「うん……わかったさ、リナリー。俺、お前じゃたたない」
「ええ、私も濡れないわ。駄目ねぇ、ラビじゃあ」
絶対無理、と言葉尻に付け加えたのはほぼ同時で、お互い顔を見合わせて苦笑する。きっかけは些細なことだった。実にありがちな、好きな人に振り向いてもらえないから、寂しいから慰めて、という流れでとにかくいたしてみようと思った結果だった。お互い絶対に成功しないことはわかりきっていたから、こうなっても別段落胆したりはしない。ただ当然とも言える結果に納得をしただけで。
「今までならてきとーに女の子引っ掛けて処理してたのに」
「性病持ってるんじゃない?あの子の尻を追っかける前に病院行きなさいよ」
「いやいやいや、毎回一応ちゃんとしてんよ?」
テーブルの上に置きっぱなしで汗をかいたコップを握る。それを一気にあおって、青年は大きくげっぷをした。少女はそれに落胆する様子も無い。最初から青年に興味が無いから、何か特別な理想を抱いたりもしていないし、失望したりもしなかった。
上のボタンひとつを無造作にあけたままの青年は、もういっこ、と呟いてボタンをあける。汗をかいた胸元に、鎖骨から滑ってきた汗が通っていった。夏の匂いがする。
「女はいいなー」
「何が?」
「別に処理しなくても我慢できるっしょ。男は日々必要ないくらいに生成され続けるってのに」
「……シモの話はよしてよ。でも、勘違いしないで。女だってそれなりに持て余したりするわ」
青年の飲んだレモンウォーターを見て、少女は私にもそれ頂戴、と呟いた。もうなくなったと言って1リットルの紙パックを左右に振る青年を見ながら、小さく少女が溜息。のち、同じくテーブルの上で汗をかいていたペットボトルのお茶を掴んで、それをコップに入れた。
「やっぱ俺、アレンとしたい」
「そこだけは同意してあげるわ」
少女の、短く切った髪の毛の先を汗が伝う。お茶がぬるい、という呟きが、コップの中に溶けていった。ぴるぴると音を立てる携帯をどちらともなく見つめて、ワンテンポ遅れて青年が掴む。青いボディに白いランプがちかちかと瞬くのを見ながら、白ってやっぱり綺麗だなあと少女は思った。
もうじきお前にもメールが来ると思う、と上から降ってきた声に、少女は顔を上げる。前髪が伸びたなあとぼんやり思いながら視線を横にずらせば、サブディスプレイが点灯した。ああ本当、と呟きながら携帯を手に取る。新着メールが1件。その内容を一度目に通した後でもう一度目を通し、目の前の青年に画面を向けた。
青年が画面を向けてきたのもほぼ同時。内容も一言一句変わらずそのまま。
『From:アレン・ウォーカー 本文:今から皆で遊びませんか』
端的過ぎるけれど受け取る印象はやわらかく、頭の中に浮かぶアレンと言う子供の顔も柔らかいまま。どちらともなく微笑んで、各々立ち上がった。
汗をかいたペットボトルを冷蔵庫にしまい、テレビを消す。古びたテープレコーダーは青年の部屋の机上に置いて、二人は玄関まで少し距離を置いて歩いた。
「当事者こそ、何も知らないのよね」
「知られちゃ困るんじゃねえの?」
そうね、と呟きながら少女はヒールの高い靴を履く。
青年は安物のサンダルを適当に履くと、電気と忘れ物がないかを確認してそっとドアを閉めた。
「リナリーさ、あんましアレンに胸押し付けたりすんなよ」
「ラビこそ、必要以上のスキンシップはやめなさいよね」
外の熱気に若干の苛立ちを覚えながら、二人は思い思いの牽制をする。
そんなふたりを笑うかのように、空は爽やかに晴れていた。
20080912/真夏日
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