「あなたは神に選ばれた存在」
最近では珍しくも無い、コンピュータに文章を音読させたような声音で長門有希は呟く。
座る僕の斜め上、まるで太陽光から僕を隠すように立った彼女は、どこまで澄んだ瞳でまじまじと淡々とこちらを見続けていた。
「あの人とは違い、ランダムに選ばれただけの能力者」
彼女の言う“あの人”は、言わずともわかる。神にいちばん近く、鍵となる存在。長門有希の言いたいことなどわかっている。神が自らの意思で、自らの選択で選んだ鍵である彼と、ただランダムに選ばれただけの、強運なのか不運なのか、それだけで神の近くにいる自分がつりあうはずがないと、そういった類のことを言いたいのだろう。
けれど、僕は。
「長門さん。もう、遅いんですよ」
「………」
ゆらりと立ち上がれば、途端に光が頬に落ちた。
逆光で薄暗い彼女の表情は、相も変わらず無表情。その、鉄面皮のようなそれが、今は少しだけ羨ましく思えた。いっそ僕が、人間でなければ。そうしたら少しは楽だったかもしれないのに。
けれど、恐らく人間でなければ、人間特有の感情を持ち合わせなければ、彼に近寄ることができなかったのも事実。
「もう、遅いんです。………今更」
神は背かれた。
ランダムに選んだだけの、ただの偶然で選んだだけの、そう、いわば赤の他人に、生涯関わることのなかったはずの人間に。鍵を、奪われてしまった。神はそのことに気づいていない。
気づかれるのも時間の問題だとわかっていても、手放す気がないのだからお笑いだ。
長門有希はそっと顔を上げて、頭ひとつ分大きい僕を見上げ、そう、と無感情に呟いただけだった。その声音には何も感じ取れないのに、言外に後悔するとでも言われているようで。
「…いずれ、涼宮ハルヒは暴走する」
「ええ」
「鍵をなくしたことによって」
「わかっていますとも」
「それでも」
「返すつもりはさらさらありません」
微笑んだ僕の顔ははたして微笑んでいたのだろうか?
僕を見上げていた長門有希の表情が、やや強張った気がした。俗に言う宇宙人でも、感情は多少、持ち合わせている。ただその原子レベルが低すぎるというだけで。人が10笑うのに対し、彼女は1笑う。それだけで。
怯えたような、気がした。
「…世界が壊れることを恐れていたのはあなた」
「それも、昔の話です」
「世界が壊れることは鍵も壊れることと同等」
「承知です」
「あるいはあなたが真っ先に消されるかもしれない」
そのリスクだって全て理解した上の行動なんですよ、と。
呟けば彼女は、理解した、と言って僕の前から体を動かした。
小柄な背中が机の横を通り過ぎて、指定席へと腰を下ろす。ハードカバーの本を手に取り、挟んだ栞を取り出した様はいつもどおりの何ひとつ変わらない日常だった。
僕はすることもなく彼女を見つめていたけれど、なんだかそれはそれでおかしな図だと思ったので、そっと視線をそらして窓の外を見る。団長と書かれた三角錐が影を落とすだけで、その机に肘をつく彼女は今、いない。
視線をずらして壁に向けても、メイド服で困惑する彼女もいない。また、それをまるで至福の時とでも言うように見つめている、あの愛しい彼も。
「鍵は神に選ばれた大切な存在」
突然鼓膜に響いた、落ち着いた声。伏せていた顔を上げれば、長門有希はハードカバーの本を開いたまま、その中間に手を置いてページの進行を防ぎ、こちらを見ていた。
彼女の言った言葉を頭の中で理解してから瞳を見つめる。続けてくださいと無言で訴える。
「けれど鍵はただの人間」
淡々と続ける、人間外の彼女からは意図がうまく読み取れなかった。
人間である以上、人間ではないものの意識を読むなんてことは不可能なのだろうか。長い間一緒にいれば、多少はわかるはずだと思ったのだが。世の中、そううまくはいかない。ただの人間で、超能力を持っているわけでもない彼は、近頃彼女の一喜一憂を驚くほど理解できるようになったというのに。
「人間である以上、感情も持ち合わせている」
余計な口を挟まずに続きを待った。
「つまり、恐怖をも持ち合わせているということ」
「………」
「身近な人間、慣れ親しんだ者が死んだ場合、人間の精神的衝撃は計り知れない」
「………」
「それが近ければ近いほど」
「………」
「よって、あなたが消されることをあの人は望まない」
「……………」
それを言った直後に、また彼女は文字の羅列を目で追い始めた。
随分と今日は饒舌だったな、と全く関係の無いことを考えつつ、頬に手をやった。ぬるりと滑る何かに一瞬背筋が凍る。それが涙だと気づいたその瞬間、どっと汗が伝った。
もし僕が死ぬか消えるか、この世界からなんらかの形でいなくなったとき、彼が泣いてくれたらいい。泣いて、悲しんで、そして追いかけてきてくれればいい。彼女を振り切って、僕の元まで来てくれたら。だなんて。ああ、そんなこと、うそだ。僕が死ぬことで彼が涙を流すのなら、それはとても、嬉しいけれど寂しいことで。だから結局は長門有希の、彼女の言った言葉の通り、離れるべきなのだろうか。考え続けて決まらない低迷。そして世界が崩壊するとわかっていても一生一緒にいたいと願う矛盾。せめて世界が僕たちの生きている間は平和でありますように。
fjord/ぼくだけが痛みますように
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