猫の亜種というものが存在する。
 ほぼ都市伝説と言っても差支えない、希少な存在だ。いるのかいないのかもわからない。一部の研究機関に全国の亜種が保護されたという話や、猫の亜種は人間のいない場所でひっそりと群れを作り、それぞれに暮らしているという話も聞く。
 いてもいなくても、結局のところ僕たちには、わからないというわけだ。

(猫の亜種は人間の生活に溶け込むことが不可能なんだよ。だってそうでしょ?人間でもないし猫でもないんだよ。飼うの?それとも一緒に住むの?どう扱えばいいの?餌は?食事は?病気は?住民票は?戸籍は?学校は?わからないよね。たぶん、その亜種も、自分たちの立場をわかってるんじゃないかなあ。だから、ヘタに表世界に出てきたりしないんだよ。それとも本当に、研究機関に保護されてるのかな。保護って言い方もおかしいか。捕まっちゃったのかな?)

 大学の友人の言葉を思い出す。社会情勢を学ぶ講義で、講師のこぼれ話から猫の亜種の話題が出た。それについての友人、国木田氏の言い分は以上の通り。まあ確かに、本当に亜種がいたとして、それをどう扱えばいいのかと聞かれれば困る他にないだろう。
 どんな姿をしているのかもわからない。猫と人間の中間種、とは聞いているので、猫の姿をして顔だけ人間とか(人面犬ならぬ人面猫か)、毛むくじゃらで耳と尻尾がついている人間か、そのどちらかの様相に近しいのだろう。どちらもちょっと、見たくないけど。
 以上の通り、都市伝説扱いの白物なので、見つけたところでどうしろとか言う話は一切出ていない。見つけたらどこかに連絡するべきなのだろうか。いやどこに?国に?でもそんなことをしたら、本当に研究対象にされてしまうに違いない。それはかわいそうだ。

 なんて、いるかいないかもわからないものに同情を覚えたところでどうにもならないのだが。意味もない。そんなことをするよりは、明日の講義で使うレジュメをまとめておく方がいいだろう。
 一限空きコマがあるので、その間だけは暇な学生が集うホールでのんびりする。飲み物でも買ってこようかな、そう思いながら財布を確認した、そのときだった。

「古泉?」

 上から降ってきた声に、ぼんやりと顔をあげる。見慣れた顔がそこにあって、思わず微笑むと、目の前の眉間に少し皺が寄った。どうも僕が愛想笑いをすると、彼にだけはわかるらしい。

「どうも。今日はどうされたんですか?」

「三限が休講になったから、暇だしここに来たんだよ。そしたらお前がいて」

「声をかけてくださったと。ありがとうございます」

 俺は礼を言うようなことをしたか、と小さな声でつぶやいている彼の顔を見る。平凡なつくりだが、決して悪いわけではない。顔のパーツはそれぞれがきれいで整っているのに、パッと際立つものがないので、普通と称される顔。僕は印象が良くて好きだけど。
 でも、僕は知っている。昨日まではなかった場所。こめかみのすぐ近くに少し痣ができていること。鎖骨のくぼみが赤く腫れていること。泣いたみたいに目が少し腫れていること。

「昨日、何かありました?」

 彼は時折、不規則に怪我をこしらえてくる。そのたびに指摘すれば、どこかで転んだだの、本棚にぶつけただの、ありきたりで嘘くさい言い訳をしては逃げて行く。今回もきっとそうだろう、そう思って問いかけると、やはり彼は一言「転んだ」と言って、こめかみを隠すように手で覆った。

「結構あなた、そそっかしいですよね」

「んだと」

 転んだだけじゃそうはならないと思うんだけど、とは言わない。彼が隠している様子だから。明らかに人に殴られた跡だと気づいても、そんなに干渉はしない。彼が何も言わないから。冷たいと言われればそれまで。だって僕には関係がないから。
 関係もなく深入りすれば、僕が損するだけ。それを知っているから、何もしない。言わない。一番賢くて汚いやり方だと知っている。

「お昼はもう食べました?」

「うんにゃ、まだ。一応コンビニで弁当は買ってるから……すまん、ここで食ってもいいか?」

「構いませんよ」

 わるいな、と言って彼が鞄を漁る。あ、また見つけた。パーカーの袖から覗く手首に赤いあと。誰かに強く握られなければああはならない、たぶん。一瞬頭の中に浮かぶ、虐待という二文字が思いのほかズドンときた。
 彼は、人当たりが良い。性格だって悪くはないし、友達だって少なくはない。勉強と運動はそれなりだが、誰かに嫌われるような要素は持っていないはずだ。むしろ、面倒見がよくて、兄気質で、近くにいる者をほっとさせる雰囲気を持っていて、好かれることのほうが多い。
 だから、きっと良い家庭で育ったのだろうと思うのだけれど、その傷を見ると、どうにももやもやとしてくる。どうして?なんで?その傷の原因は?問い詰めたくなる。
 でも言わない。

「……あなた、先日も鮭弁当を食べてませんでした?」

「いいだろ別に。好きなんだよ」

 いえ、悪くはないですけど。
 もくもくと口に鮭を運びながら、彼は気遣うようにこめかみをなでた。無意識だろうか、痛い?聞きたくなって、口を閉じる。彼が着る服はパーカーが多くて、そしてなぜか少しだるっとしたズボンをよく合わせている。その大きい服の隙間から、細い手首やなんやかんやが覗いていて、時折どきりとさせられることがあった。

 食事を終えて、彼がゴミを片付けて、僕もレジュメをまとめ終えたらちょうどいい時間帯だ。それぞれ別の講義なので、移動をするべく荷物をまとめる。彼とは、特別仲良しというわけではない。名前も知っていて携帯アドレスも知っているけれどこまめに連絡は取り合わない、その程度の関係だ。

「じゃあ、講義頑張れよ」

「あなたこそ。それでは」

「ああ」

 また今度、とか、また明日、なんて言葉は使わない。僕も、彼も。軽く手を挙げて挨拶をかわし、移動を始める。そこで別れるのが定石だ。
 けれど今回は、違った。彼が手に持っていたファイルから、するりとA4の紙が抜けたのだ。あ、と呟いて、急いでそれを拾い上げる。彼に言わなければ。

「あ、」

 の。と、続けるはずの言葉は、誰かが上げた声にかき消された。講義が終わってホールに入ってきた人たちの騒ぎ声。その声と人波に遮られて、彼の姿も見えなくなる。まずいな、これは、追いかけないと。次の講義で使うプリントだったらかわいそうだ。
 自分の荷物を肩に抱えあげて、ちらりとそのプリントを見た。固まった。

「…………?」

 プリントの上部に印字されていたのは、退学手続き案内、という文字。たいがくてつづきあんない?彼が落とした?
 一瞬、まさかそんな、と思った。何か理由が?いや、何も聞いていない。彼の友達だという国木田氏からも、そんな話は出てきたことがない。成績だって、特別良いわけではないが特別悪いわけでもなかったし、次の授業でプレゼンをするから資料集めをしなければ、と言っていたことも覚えている。
 だったらなんで?そう思いながら、もう一度プリントを見た。ところどころにマーカーが引いてあって、たぶん彼がチェックを入れたのだろうということがありありとわかる。
 退学。彼が。理由はわからないけれど、退学。そうか。
 意味もわからず、なぜか妙にショックだった。

 とりあえず早急に必要というわけではなさそうなので、講義が終わり次第連絡を取って手渡そう、と思っていたのだが、これが間の悪いことに携帯の充電が切れ、彼と連絡が取れなくなってしまった。
 彼はサークルに入ってるわけでもないそうで、誰かに手渡してもらうわけにもいかない。家に持ち帰るのもなんだかいやな気持ちだし、彼だって、こんなものを他人にずっと持たれていては気分が悪いだろう。
 でもどこから出るかもわからないのに待ち伏せはできないし、結局持ち帰る他になかった。鞄の中に皺がつかないように入れて、帰路につく。
 自分の住むマンションの近くまで来て、小さくため息を吐いた。面倒臭いことは苦手だ。僕と似たようなスタンスの彼と話をするのは、結構好きだったのに。やめてしまうのか。そうか。
 つまらないなあ、そう思いながら、とろとろと歩く。自室に入り、こもった空気にうんざりしながら窓を開けに向かった。夕方だからか人通りが多く、見晴らしのいいこの高さからだといろいろなものが見える。ああ、あの家、窓あけっぱなしだな。話し声は聞こえないけど喧嘩でもしているんだろう、取っ組み合いになっている。近所迷惑だからやめればいいのに。
 押し負けていたらしい側の人間が立ち上がって、ベランダに逃げた。おや、と思っていると、その人が助けを求めるようにベランダの向こうに身を乗り出す。どこかで見たことのある服装だった。いや、確実に見た。覚えがあった。

 彼だった。

「――っ……!?」

 急いで鞄をベッドの上に放り投げて、家を出る。エレベータがタイミングよくきてくれたおかげか、スムーズに外に出ることができた。マンションから見えた一軒家を探して駆け回り、ようやくそれらしい家を見つけたところで、ひと声もかけず庭に入る。不法侵入で訴えられても反論はできないな、と思いながら先ほどのベランダを見上げると、誰かの叫び声がした。いや、彼の、叫び声。続いて、誰かの怒鳴る声。ドタバタと騒がしい足音。壁に何かがうちつけられる音に、意識がはっとした。確実にこれは、暴行だ。助なければ。そう思って、体が勝手に動く。
 玄関と思しきドアを開けて中に入り込むと、二階に通じる階段がすぐそこにあって、その上の廊下から彼がひょっこり顔を出す。フードををかぶっていた。頭を守るためだろうか、ああだから、だから彼はいつも、パーカーを。
 涙目の彼が、こいずみ?、とわななく。その彼を追いかけるようにしてやってきた中年男性が、彼を蹴り飛ばした。あっという間に、階段から彼の体が転げ落ちてくる。頭を守るように丸まった体が廊下に投げ出されて、場が静寂に包まれた。

「……あ……?」

 転がったまま動かない彼に近寄ると、男性がなにごとかを叫ぶ。叫んでいるが、言葉が支離滅裂で理解できない。化け物だとか、金くい虫だとか、そのような罵詈雑言で耳が汚れて行く感覚がする。無視して、彼の体に触れた。パーカー越しに感じる体温は高く、それなのに青白い頬にぞっとする。男性が階段を下りてくるのが視界の端に映って、もう無茶苦茶だけど、逃げなければ、と思った。彼の体を抱えあげて、玄関から飛び出す。青年だというのにその体躯は妙に軽く、それにもまた、ぞっとした。
 逃げるなだとか化け物だとか消えろだとか、これまた支離滅裂なことを叫ぶ男性を振り払うためにドアを閉めて、気づかれないように庭に隠れる。少し経って玄関から出てきた男性が、また何かを叫びながらどこかに走って行った。僕と彼を探しているのだろう、大声が遠ざかって行く。
 その隙に自分のマンションに向かった。セキュリティが万全だそうなので、エントランスを抜けた後はゆっくりと歩く。とっさのことで負ぶさることはできなかったが、抱きあげた彼が呼吸をしていることに気づいて、どっと肩の力が抜けた。生きてる。

 部屋に連れ込み、ベッドの上に彼を寝かせた。窓の外を覗くが、あの男性はもう見えない。父親、だろうか。考えたくもないが、その可能性が一番高いだろう。表札には彼の苗字が彫られていたのだから、あそこが家に違いない。
 虐待。やっぱり。かわいそう。そんな言葉が頭の中に浮かんでは、忘れたように消えていく。とりあえずは、彼を介抱するのが一番だろう。病院に連れて行くべきだろうか、でも保険証は?彼の荷物は一切があそこにあるに違いない。今は取りに行くべきではないだろう。
 ひとまず、彼が寝ているうちに。体のどこかを打ったのは確実だから、湿布を用意するとして。あと、飲み物を。それから、消毒液も一応あったほうがいいだろう。救急箱を最近使っていないので、それらがあったかどうか不安だが、とりあえず持ってくる。
 ベッドの脇に座り込み、彼を見下ろした。フードの隙間から覗く唇が切れていて、血がじんわりにじんでいる。それが飛び散ったのか、首元がところどころ汚れているのが痛々しくて、知らず目を細めた。もぞもぞと彼が動いて、ああやっぱり生きてる、と、ぼんやり安心する。
 そう。生きてる。安心する。

「……う」

 彼が小さく呻いて、苦しそうに喉を押さえた。眉間に寄った深い皺が、苦しさを訴えてくる。きゅう、と体を丸めてううだのああだの呻く彼の背中を撫でさすると、気持ちよさそうに息が吐かれた。
 うっすら開かれる瞼から、光の加減か緑がかった瞳が現れて、ほう、と思う。きれいだ。その目がぱちぱちと瞬いて、横向きの体勢からあおむけになった。ぱさりとずれたフードの隙間から、髪の色と同じ色をした耳が飛び出てくる。ああ耳。耳?
 ねこのみみ。

「………こいずみっ!」

 ぴゃっ、と効果音のつきそうな動きで起きあがった彼が、ふるふると肩を震わせて僕を見つめた。まるい瞳に僕が映り込んでいる。窓から入り込む風で、彼の髪の毛がそよいで、耳がぴぴっ、と動いた。ぴるぴる、ぴぴぴっ、と震えるたび、細かな毛先が波打つ。ぽくり、と小さな音がして、やや大きめのズボンが脈打った。たぶんそこには、尻尾が隠れているのだろう。猫が人間を警戒するとき、毛が逆立ち、尻尾もぴんと立ちあがるのだということをどこかで聞いた。もしもそれが本当ならば、きっとその尻尾は、ズボンの中でさぞ窮屈な思いをしているに違いない。

(――どんな姿をしているのかもわからない。猫と人間の中間種、とは聞いているので、猫の姿をして顔だけ人間とか(人面犬ならぬ人面猫か)、毛むくじゃらで耳と尻尾がついている人間か、そのどちらかの様相に近しいのだろう。どちらもちょっと、見たくないけど。――)

「……結構、かわいい姿だったんですね」

 口から出たのは、そんな間抜けな言葉だった。











20090906/ハーフ・ミザントロープ