猫の亜種というものが存在する。 (猫の亜種は人間の生活に溶け込むことが不可能なんだよ。だってそうでしょ?人間でもないし猫でもないんだよ。飼うの?それとも一緒に住むの?どう扱えばいいの?餌は?食事は?病気は?住民票は?戸籍は?学校は?わからないよね。たぶん、その亜種も、自分たちの立場をわかってるんじゃないかなあ。だから、ヘタに表世界に出てきたりしないんだよ。それとも本当に、研究機関に保護されてるのかな。保護って言い方もおかしいか。捕まっちゃったのかな?)
大学の友人の言葉を思い出す。社会情勢を学ぶ講義で、講師のこぼれ話から猫の亜種の話題が出た。それについての友人、国木田氏の言い分は以上の通り。まあ確かに、本当に亜種がいたとして、それをどう扱えばいいのかと聞かれれば困る他にないだろう。
なんて、いるかいないかもわからないものに同情を覚えたところでどうにもならないのだが。意味もない。そんなことをするよりは、明日の講義で使うレジュメをまとめておく方がいいだろう。 「古泉?」 上から降ってきた声に、ぼんやりと顔をあげる。見慣れた顔がそこにあって、思わず微笑むと、目の前の眉間に少し皺が寄った。どうも僕が愛想笑いをすると、彼にだけはわかるらしい。 「どうも。今日はどうされたんですか?」 「三限が休講になったから、暇だしここに来たんだよ。そしたらお前がいて」 「声をかけてくださったと。ありがとうございます」
俺は礼を言うようなことをしたか、と小さな声でつぶやいている彼の顔を見る。平凡なつくりだが、決して悪いわけではない。顔のパーツはそれぞれがきれいで整っているのに、パッと際立つものがないので、普通と称される顔。僕は印象が良くて好きだけど。 「昨日、何かありました?」 彼は時折、不規則に怪我をこしらえてくる。そのたびに指摘すれば、どこかで転んだだの、本棚にぶつけただの、ありきたりで嘘くさい言い訳をしては逃げて行く。今回もきっとそうだろう、そう思って問いかけると、やはり彼は一言「転んだ」と言って、こめかみを隠すように手で覆った。 「結構あなた、そそっかしいですよね」 「んだと」
転んだだけじゃそうはならないと思うんだけど、とは言わない。彼が隠している様子だから。明らかに人に殴られた跡だと気づいても、そんなに干渉はしない。彼が何も言わないから。冷たいと言われればそれまで。だって僕には関係がないから。 「お昼はもう食べました?」 「うんにゃ、まだ。一応コンビニで弁当は買ってるから……すまん、ここで食ってもいいか?」 「構いませんよ」
わるいな、と言って彼が鞄を漁る。あ、また見つけた。パーカーの袖から覗く手首に赤いあと。誰かに強く握られなければああはならない、たぶん。一瞬頭の中に浮かぶ、虐待という二文字が思いのほかズドンときた。 「……あなた、先日も鮭弁当を食べてませんでした?」 「いいだろ別に。好きなんだよ」
いえ、悪くはないですけど。 食事を終えて、彼がゴミを片付けて、僕もレジュメをまとめ終えたらちょうどいい時間帯だ。それぞれ別の講義なので、移動をするべく荷物をまとめる。彼とは、特別仲良しというわけではない。名前も知っていて携帯アドレスも知っているけれどこまめに連絡は取り合わない、その程度の関係だ。 「じゃあ、講義頑張れよ」 「あなたこそ。それでは」 「ああ」
また今度、とか、また明日、なんて言葉は使わない。僕も、彼も。軽く手を挙げて挨拶をかわし、移動を始める。そこで別れるのが定石だ。 「あ、」
の。と、続けるはずの言葉は、誰かが上げた声にかき消された。講義が終わってホールに入ってきた人たちの騒ぎ声。その声と人波に遮られて、彼の姿も見えなくなる。まずいな、これは、追いかけないと。次の講義で使うプリントだったらかわいそうだ。 「…………?」
プリントの上部に印字されていたのは、退学手続き案内、という文字。たいがくてつづきあんない?彼が落とした?
とりあえず早急に必要というわけではなさそうなので、講義が終わり次第連絡を取って手渡そう、と思っていたのだが、これが間の悪いことに携帯の充電が切れ、彼と連絡が取れなくなってしまった。 彼だった。 「――っ……!?」
急いで鞄をベッドの上に放り投げて、家を出る。エレベータがタイミングよくきてくれたおかげか、スムーズに外に出ることができた。マンションから見えた一軒家を探して駆け回り、ようやくそれらしい家を見つけたところで、ひと声もかけず庭に入る。不法侵入で訴えられても反論はできないな、と思いながら先ほどのベランダを見上げると、誰かの叫び声がした。いや、彼の、叫び声。続いて、誰かの怒鳴る声。ドタバタと騒がしい足音。壁に何かがうちつけられる音に、意識がはっとした。確実にこれは、暴行だ。助なければ。そう思って、体が勝手に動く。 「……あ……?」
転がったまま動かない彼に近寄ると、男性がなにごとかを叫ぶ。叫んでいるが、言葉が支離滅裂で理解できない。化け物だとか、金くい虫だとか、そのような罵詈雑言で耳が汚れて行く感覚がする。無視して、彼の体に触れた。パーカー越しに感じる体温は高く、それなのに青白い頬にぞっとする。男性が階段を下りてくるのが視界の端に映って、もう無茶苦茶だけど、逃げなければ、と思った。彼の体を抱えあげて、玄関から飛び出す。青年だというのにその体躯は妙に軽く、それにもまた、ぞっとした。
部屋に連れ込み、ベッドの上に彼を寝かせた。窓の外を覗くが、あの男性はもう見えない。父親、だろうか。考えたくもないが、その可能性が一番高いだろう。表札には彼の苗字が彫られていたのだから、あそこが家に違いない。 「……う」
彼が小さく呻いて、苦しそうに喉を押さえた。眉間に寄った深い皺が、苦しさを訴えてくる。きゅう、と体を丸めてううだのああだの呻く彼の背中を撫でさすると、気持ちよさそうに息が吐かれた。 「………こいずみっ!」 ぴゃっ、と効果音のつきそうな動きで起きあがった彼が、ふるふると肩を震わせて僕を見つめた。まるい瞳に僕が映り込んでいる。窓から入り込む風で、彼の髪の毛がそよいで、耳がぴぴっ、と動いた。ぴるぴる、ぴぴぴっ、と震えるたび、細かな毛先が波打つ。ぽくり、と小さな音がして、やや大きめのズボンが脈打った。たぶんそこには、尻尾が隠れているのだろう。猫が人間を警戒するとき、毛が逆立ち、尻尾もぴんと立ちあがるのだということをどこかで聞いた。もしもそれが本当ならば、きっとその尻尾は、ズボンの中でさぞ窮屈な思いをしているに違いない。 (――どんな姿をしているのかもわからない。猫と人間の中間種、とは聞いているので、猫の姿をして顔だけ人間とか(人面犬ならぬ人面猫か)、毛むくじゃらで耳と尻尾がついている人間か、そのどちらかの様相に近しいのだろう。どちらもちょっと、見たくないけど。――) 「……結構、かわいい姿だったんですね」 口から出たのは、そんな間抜けな言葉だった。 20090906/ハーフ・ミザントロープ |