目が覚めて、カーテンの隙間から差す光のあとに自分の手を見る。平凡でどこにでもありそうな、男の手。筋ばっていて柔らかみはほとんどない。
 爪は赤黒く……正しくは、爪と指の間にみっしりと赤黒いものが詰まっていて、そのせいで指は汚く見えた。爪の裏も真っ赤だ。昔何かの本で見た悪魔の手とは、このように赤黒いものではなかっただろうか、と思いつつ人差し指を舐める。爪の隙間に詰まったそれはどこか塩の味がして、酸性雨の降ったあとの空気みたいな匂いがした。
 横に眠る男の背中に走った傷とその指を見ればつながりがわかる。血は止まっているが、傷の表面はまだ乾いていないようにも見えた。一度寝がえりをうったのであろう、シーツの上に転々と赤い色が飛んでいる。
 シーツに指先を押し付けると、舐めた人差し指だけ乾いた血が湿って、シーツの上を小さく汚す。面白くてほかの指を全部舐めてシーツをひっ掻いた。汚れた。汚いものを見るよりは、一種のアートを見ているようで、なにか胸がわくわくした。
 傷口を舐めたら痛いだろうなあと思ったので、背中を見つめることに専念する。乾いていない傷口は光に当たると少しだけ照って、あああれが肉なのだなと改めて認識した。その下にある骨の形が浮き上がっているものの、皮と肉に覆われてその本体は見えない。どんな色をしているのだろう、少し見てみたい気もするけど。

 ふいに男が起きあがったので、俺はただ起き上がる背中を見ていた。二の腕にも擦過傷ができていて、それをこしらえたのは俺なのだろうなとぼんやり思う。改めてシーツの上へ視線を滑らせれば、シーツの上には筆で点々を描いたかのように、赤い色が散っていた。点と点をつなぎ合わせれば星座になるんじゃないかと、半ば本気で考えた。

「死ぬ夢を見ました」

 ぽつりと男がつぶやいて、こちらを見ないまま腕を動かす。男の視線はカーテンに向けられているようだった。あるいはカーテンのその向こう、太陽かもしれない。話を振る際にだいたいのパターンで俺を見るので、今日は俺に対しての言葉ではないのだなと思った。

「僕が死ぬ夢を見ました」

 まるで思い出したかのように主語を付けくわえて、いやだからそれがなに、と思う。死ぬ夢とは逆に縁起が良いものではなかっただろうか。確証もない記憶なのでその豆知識は口には出さずにいたが、男はまるでこの世の終わりとばかりに続ける。

「あまりにもあっけない死でした。いや、違うな、どんな死に方だったのかは覚えてないけれど、死ぬんだと自覚してからすぐに死んだんです。僕は死んだ。あなたは傍にいなかった」

 夢の中での出来事など、目が覚めればだいたい忘れてしまうものだろう。俺だって例外ではない。先ほどまで見ていた夢の中で、俺はもう一度男に抱かれていた。体中のどこもかしこも触られて、これ以上ないというほどに弄られたような気はするのに、まったく気持ち良くなかったということだけを覚えている。詳しい愛撫が思いだせない。思いだす必要性も感じないし、夢自体にあまり意味がない気がするので俺はそのことを黙っている。
 たかが夢と切り捨ててしまえば楽なのに、どうもこいつはそういうことに気を向けすぎるところがあって、何かとネガティブで落ち込みやすい。浮上するのも早いので、俺はそいつが浮上するまで関与を一時的にやめるのだが、話の途中に「あなた」という単語が出てきたので、きっと逃げることはできないのだろうなと思った。

「ねえ、死ってこわくないですか」

 相変わらず男はこちらを見なかったが、明らかに質問とわかるそれだったので、しゃがれて声がまともにでない喉を酷使してこわいんじゃねーのと返す。実際のところ、実感がわかなくていまいち怖いと感じない。幼いころはただ漠然と、死という大きなものに恐怖を覚えては泣いていたものだが、こうも思考するようになれると考えても無駄だということに気づく。
 いずれ人間は死ぬのだ。老いて、天寿を全うする、あるいは生きていくさなかに何らかの原因で死ぬ。生き続けるということはありえない。そんな恐怖に立ち向かうより、意識をそらして今楽しいと思うことをしている方が、ずっといいことだと思うのだが。

「僕は、怖かったです。今まで僕は、長生きはできないだろうとなんとなく思っていました。だから、短い命をどこかで散らすのだろうと。でも、そのことを考えると怖い。だからと言って、長生きするのも怖い。いずれ死ぬのなら、ああ……」

 黙りこむ男の背中は傷だらけで、やっぱり傷は乾いていなかった。背中を窓に向けているせいか、カーテンの隙間から差しこむ光でキラキラと傷の表面が反射する。それは生の象徴にも見えたから、俺はその瞬間死を怖くないと思った。いずれ年をとれば、このぴんと伸びた背骨もいくらか曲がって、弱いものになるのだろう。そして死ねば、この傷は治らなくなって、肉が落ちて、腐っていくのだ。
 背骨が曲がって行くのはもったいないから、そこだけ取ってどこかに立てかけておくことはできないのかな、なんて考えてしまったあたり、俺は寝ぼけているらしい。
 話に付き合うのも面倒なので、うつぶせになって枕の横に置いてあった携帯をつかむ。時刻確認をしてメールチェックもしていると、ごつごつとした俺より大きな手で首を握られた。ぎゅうとかぎゅむとかではなく、そっとした、やさしい動作だった。

「ねえあなた、一緒に死にましょう」

 たぶんこいつも寝ぼけているのだと思った。時刻は六時半。部屋に入り込む光は明るいが、時間的にはまだまだ早い方だ。休日なのだからもう二時間、いや、三時間四時間は固いな。もう一回寝ても怒られやしない。
 あと、少なからず誤差は出るだろうから、一緒に死ぬのは難しいのではないか。首をぱつんと落とせばそれなりに同じタイミングで死ねるだろうが、毒とか……苦しいな、却下。薬系は何かと引っかかるのでだめだ。あと飛び降りならびに飛び込み、迷惑だからだめだ。樹海、めんどいのでだめ。手首と舌は死ねる確率が高いわけではないのでそれもアウト。切腹は論外。あと何かなかったっけ、思い出せん。とにかく、「一緒に」という制限を付けると、だいぶ死に方は限られてくると思う。

「僕はだめでした。考えるほど怖い。あなたが死ぬところを見送りたくない。でも、僕が死んであなたが悲しむと思うと、先に死ぬこともできないんです。ねえ、どうか一緒に死にましょう。思い出作りはもういらない。それよりも早く楽になりたいんです。どうか」

 携帯の目覚ましを十時にセットして、枕の横に戻す。ごろりと寝がえりをうつと、首にかかったままだった手が顎にヒットした。痛い。天井と男の泣き顔が視界いっぱいに広がって、光が遮られたことにムッとする。おまけに寝がえりをうったとたんに中に入ったままだったものがどろりと流れて行く感覚が気持ち悪かった。はやめに掻き出しておかねば、十時に起きたときに腹を壊すだろうか。面倒臭い、もうどうでもいい。有効かどうかはわからんが腹痛に効く薬があったはずだ。あと下痢に効くやつ。それ飲めばいいや、と思って目を閉じようとすると、咎めるみたいにくっと指に力が入った。俺の指ではない、男の指に。よってその下にあった俺の喉仏はつぶされる形になるわけである。呼吸が詰まって苦しいが、そこを絞められたせいで声は出なかった。

「怖い……。心臓が痛いんです。涙が止まらない。なぜ人間は、死ぬために生まれるのでしょう。終わりなどなければよかった。自己申告制でよかったんです。何歳まででも生きて、そして飽きればこれから死にますと口にして、目を閉じて終わることができる、そんなシステムがあればよかった。なぜこうも、未知の恐怖に怯えなければならないのですか。なぜ僕は人間に生まれたのですか」

 知ったこっちゃねーよ、と思いながら瞼を伏せた。瞼の裏は真っ暗で、宇宙を覗いているようで少しだけ面白い。耳にはまだ男のつらつらと中身のない嘆きが入ってきていたが、いちいち理解するのが面倒だったのですべて右から左に流した。喉仏に入りっぱなしだった力はいつの間にか抜けていて、呼吸も容易い。
 ねえ起きてください、僕の目を見て。あなたが生きているといつまでも実感していたいんです。あなたと僕が最初からひとつの個体ならよかった。そうしたらこんなにも、葛藤することはなかったんでしょう。つらい。そう言って男が俺の唇に何かを押しつけてきたので、俺は目をつむったまま、左手を伸ばして、男の背中と思しきところに精一杯爪を立てた。

 痛い、と男がつぶやいたので、俺はそっと瞼をあげる。男の、痛みに耐えるように顰められた眉、その下にある細められた瞳に、確かに俺が映っていた。ぐっと力を込めて傷を抉ると、男が痛みに悶えたので、ああなんだ生きてるんじゃないかとぼんやり思う。どうしてそんなことをするんです、と泣きながら俺の首筋に噛みついてきて、俺は声もあげずに目を細めた。背中から離した手を、男の肩越しに見る。爪の間には赤黒いものが詰まっていた。
 俺は安心した。男は何も言わず、ただもう一度俺を抱いた。











20090923/あかくくろく