「あ、ええはい、ええ、その件は、はい。先日お話した通りで……あ、はい、まだ手元に。はい。もう二部ほど刷りますから、お急ぎでなければ後日送らせていただきます……え、ああ、ではそのように。はい。はい。よろしくお願いします」

 とかなんとかうんたらかんたら。もう二分ほど前まで話していたことは忘れたが、とりあえず「先日の会議の資料コピー2部」と乱雑に書きつけて、パソコンの隅っこに貼っておいた。と、ここで気づいたのだが、どうやら右手の小指脇、ようは手のひらの側面が真っ黒に汚れていて、実にみすぼらしい。なにしたっけ、マークシート式の社内アンケートが大量にきていたから、それを鉛筆でがりがりやったせいだろうか。いやいや、そういえばもう二日風呂に入ってなかった、それが原因かも。入らなかったわけではない。が、簡易シャワー室に一分ほど入って、水浴びをしてすぐ出たため、洗った気がしていないだけだ。髪の毛もキシキシ、というとおしゃれに気を遣う女性になりそうなので思うに留める。口にはしない。
 はあああああ、と、ながい、実にながいため息を吐いた後で、デスクの上に放りっぱなしだった水筒を手に取る。いまどき大の大人が水筒なんてと昨年入ってきたばかりの女の子(大学を出たばかりだそうだから、まだこの呼び方で構わないはずだ)が言っていたような気がするが、別にこれで恥ずかしいと思ったことはないので、構わずふたを外して直接中のお茶を飲んだ。
 この水筒を渡してくれたのが彼でなければ、もう今頃こんなペットボトルよりも重たいステンレスの筒など捨てていたところだろう。でもこれは最近開発されたばかりの超軽量型で、保温性にも優れているしコンパクトな設計だから鞄の中にも入れやすいんだ、と彼がやけに熱心に持たせてくれたので、なんだかたかだかステンレスのかたまりがとても素晴らしいものに思えて、僕はそればかり使っていた。自分の体は洗えていないのにこの水筒は今朝がた給湯室で熱心に洗ったくらいだ。
「古泉さん、昼食とられましたー?」
「あ、今から行くところです」
「一緒に行きますー?」
「いえ、弁当ですからお気になさらず」
 そうですかあそれじゃあ、と同僚の男性が間延びした声で挨拶をして、とっとと部屋を出て行った。節約を謳われる昨今だけれども、景気が良かったころから僕は弁当派だ。流行に乗ったわけじゃない。
 一応仕事場で食事をすることは禁止とされているので、食堂に弁当を持っていく。あと水筒も。もうここまでいくとお察しいただけるだろうがこの弁当も彼手製のもので、確か中身は、昨日の晩御飯の残りだった気がする。詰めただけですまんと言われたけれど、朝急いで卵焼きは作っていたようなので、たのしみでたのしみで仕方がない。彼が謝る必要性など、今のところちっとも感じない。
 食堂の端、テーブルの隅っこに腰をおろし、水筒と弁当を置く。足りなければ小鉢でも買って食べようと思いながら弁当を広げると、ほんのりやさしい煮物の匂いがした。よく味が染みた大根がおいしかった記憶がよみがえる。次は筍も入れてくださいと頼んでみようか。

 しゃべる相手もいないので、食事はスムーズに進む。電話の対応で顎が疲れていたので、スムーズと言っても噛む速度はそれなりだった。ぱくぱく食べ終えて空っぽになった弁当を上から下まで眺めた後、腹の調子を考える。小鉢を食べる余裕はあったかな、時間の余裕は?まだあるけれど、いらないか。お茶でごまかそう。
 そして食事が終わったら、やることがあるのだった。
 ポケットからプラスチックの入れ物を取り出して、ふたを開ける。中から出てきた少し大きめの錠剤(カプセルの形をしている場合は何と言えばいいのだろうか)をひとつつかみ、それを半分に割った。前回一個丸ごと飲み込み、見事呼吸を詰まらせたことを覚えていたので。
 半分に割れてもまだ大きなそれを苦々しさと愛おしさ半々な気持ちで見つめて、口の中に放り込む。彼が淹れてくれたらしい少し渋めのお茶で飲み込んだが、見事呼吸が詰まった。なんというでかさ。耐えきれない。流れろ流れろと思いながらごくごくお茶を飲んだら、しょうがねえなとばかりにのろのろと薬が胃に落ちて行った。
 ああまだある、と右手のひらに残っている薬の半分を飲み込もうと意気込んだところで、携帯が震える。
「はい、古泉です」
 んなこたわかっとる、という声に、それが誰だか理解した。現金なことに、先ほどまで午後の仕事に対して抱えていたかすかな憂鬱が吹き飛ぶ。
「珍しいですね、あなたから電話してくるなんて」
『そうか?結構してると思うが。帰りが遅かったら……あ、メールで済ませてるか。って、そういうのはどうでもよくてだな、くすり、飲めたか?』
 あと半分残っているところです、と苦笑気味に彼に言った。そう、遅ればせながら、この薬も彼がくれたものだった。薬、正しくはサプリメント。形状が似ているし、言葉にすれば短くて簡単なので薬、と称しているだけだ。
 僕が仕事にかまけてろくすっぽ食事をしておらず、先日体調を崩したことを見かねた彼が、ドラッグストアでわざわざ店員に良いものはどれかと聞いた上で(彼が自主的にそれを報告したのではなく、その様子を見ていた知人からそれを聞いたのだ)、買ってきてくれたものだった。サプリメントはあくまで補助的なものだから、それに甘えて食事を怠るなと説教されたのも記憶に新しい。ええと、成分は何だったか。渡された入れ物にはマルチビタミンと書いてあった気がするが。
『そう、あれ、でかかったろ。あのな、入れもんには噛んじゃだめって書いてたよな。でも、飲めないようだったら噛んでもいいらしい。ソースはネットだからあんまり信用せんほうが良いとは思うんだが』
「そうですか」
 そうですか、と言いながら、かんじゃだめなんてしゃべり方をする彼はかわいいなあと思っていたりする。手のひらの中のかけらは、僕に摂取されるのを今か今かと待っているようだった。早く噛み砕いてあげなきゃなあ。
『のどに詰まらせたら苦しいし、あんま無理して飲まなくてもいいから。とりあえずそれだけ言っておこうと思って』
「それは……、ありがとうございます。けど、メールで済ませればよかったのでは?いえ、別に僕は毎回電話でもかまいませんけど」
 ああでも、仕事中で出られないのはもったいない気がしていやだなあと呟けば、彼がやさしい声で馬鹿かと言う。
『今一区切りついたんだ。これから昼飯』
「そうですか。あ、今日もおいしかったです。ありがとうございます」
 おいしかった。本当だ。全部弁当に詰めてしまったのだろうか、帰ったらもう残っていないのだろうか。時間をかけるごとに味がしみ込んでいくのが、煮物のいいところだよなあと思いながら、帰ったらまず鍋を確認してみようと決意する。彼が作る料理はいつもほっこりしていて、仕事で疲れた体を癒してくれるから。癒してくれるとか、そんな言い方をすれば少しクサくて彼が嫌がるかもしれないな。
 きのうの詰めただけなのに、と申し訳なさそうにまた彼が言ったので、そんなこと言わないでくださいと急いで告げた。
「あなたの作る煮物、大好きですから。また作ってくださいね」
『まあ、そうだな。気が向いたら……』
 そこで彼の名前が呼ばれて、彼が電話口から少し離れたところで返事をしたので、電話が終了することを察する。名残惜しいが、家に帰れば再び会うことができるのだ、悲観することはない。じゃあ俺切るな、またあとで、と彼が言った言葉にかぶさるように、思わずころりと口から願望が転がり落ちてきた。
「あの、どうせでしたら今日、外食しませんか。久しぶりに」
『……ん?』
「いえ、その。いつもあなたにご飯を作っていただくのは申し訳ないと思ってはいるのですが、生憎僕はあまり料理が上手ではないと言いますか、家事を肩代わりするのもやぶさかではないのですが、それにより無駄な時間を浪費するのは良いことと思えませんので、ですから手っ取り早く食事が摂れて、かつあなたが苦でないところと言えば、たとえばファミリーレストランとか、なんでしたら居酒屋でも、どうでしょう。もっと高級なところでもかまいませんが、予約が……」
 ブレーキのかけどころをうっかり見逃してしまって、結局だらだらと言い連ねてしまった言葉に、彼は数秒ほどの沈黙を置いて、まあいいけど、とつぶやく。このまま飛び上がって喜びを表現したいところだったがここは食堂なので急いでその衝動を抑え込んだ。くく、とのどの奥からかろうじて零れ落ちたみたいな笑い声が耳元でするので、かっと胃のあたりが熱くなる。表情を想像するだけで、なんだか呼吸が苦しくなるくらい、心地よかった。
『外食しませんか、で終わらせときゃいいのに』
 必死すぎ、と言われたけれどもう気にはならない。あなた相手に必死にならなかったことがあるだろうか、思い返しても見つけられないのですがもしあるのならば教えていただきたいところです、そうまくしたててみようかとも思ったくらい。
 とにかく、彼が了承してくれたので、近場で食事ができそうなところを探そうと思った。今日だけは残業を頼まれても絶対蹴る。何がいいだろう、彼は健康的な和食が好きと見せかけて案外洋食、ひいてはジャンクフードも好きだから、そのときそのときの気分によってあれこれ変わる。僕が勝手に行く場所を決めたところで決して怒りはしないけれど、どうせだったら彼の喜ぶ場所に連れて行ってあげたい。じゃーな、と軽い言葉とともに通話が切れてから、ああそうだ聞いておけばよかった、そう思った。
 とたんにそわそわし始めた自分には半ば呆れるが、彼関連でそわそわできなくなったらそれは自分が終わるとき、と思っているので、特に気にしない。そうと決まれば午後の仕事はさっさと終わらせてしまおう、休日呼び出されるのはいやなので徹底的に。まてまてまて!風呂にも入りたい。いや、意地でも入らなければ。あまり目立つような汚れはないが気分的な問題があれこれと。何より彼にくさいなんて言われたらその場で泣き崩れる自信がある。昼休みはあと二十分弱、ギリギリ入れないわけではないが、古泉さんどうしたのなんて聞かれたら実に答え辛い。まあいいか。僕の中には彼>同僚の不審な目、と明らかなレベルの違いがあるので、同僚にどう思われようが彼に嫌がられなければそれでいい。よし、それでは、店のめどもつけて待ち合わせ時間も決めてメールをせねば。立ち上がって空の弁当箱と水筒を手に取ったら、カウンターで料理が出てくるのを待っていた同僚がにやにやと奇妙な笑いを向けてきた。言いたいことは半ば顔に書いてある。
「まあ、がんばれよ」
「当然です」
 それじゃあ失礼、そう言って、僕は食堂を飛び出した。











20091127/ある日