凍えるような夜の冷たさに、もう少し厚着をしてくれば良かったと思う。
 ただ衝動のままに携帯だけをひっ掴み、適当なサンダルを履いて外に出た。家の中など、いても意味はない。
 怒鳴りつけられるあの感覚は、何かに押しつぶされる感覚と似ていた。幼いころ、重たい布団を上からかけられ、呼吸ができないほど息が詰まったときのあれ、あの感覚がリアルな例としては非常に近しい。逃げるように、いや実際逃げて外に出れば、逃げるのか、と背中に吐き捨てられた。ええ逃げますとも、逃げる以外の選択肢が今のところ、僕にはないので。

 吐く息は白く、指先は冷たい。なんとなく、冷え症でなくて良かったと思った。女性たちは冷え性が故、寒い場所で過ごしていると指先が凍えてしまうらしい。ああ寒い。

 家族にとって、僕は化け物だそうだ。立派に女性の股の間から出てきて自分たちの遺伝子を持った子供がすくすくと大きくなって、適度に顔も良く勉強も運動もでき、両親としては良い人生を歩めていたようだが、うっかり当たりくじだか外れくじだかに当たってしまって、僕に奇妙な能力が備わってしまったものだから、彼らとしてはたまったものではないだろう。毎夜のようにどこかに駆り出される僕の背中を、異物を吐き捨てるような顔で見ていた父親の顔をガラス越しに見た。どうやら僕は、彼らにとっての異物らしい。
 目の上のたんこぶならぬ家の中の実害かな、と思いながら足下の小石を蹴り飛ばした。国道に面した歩道を歩いていると、容赦なく横を車が通って行く。つまらないから、車の前に飛び出してやろうかとも思ったけれど、それもまたつまらないし、恐らく面倒なことになるであろうことが予測できたからやめた。

 人通りの少ないところに行きたい、思ったと同時に足が動き、田舎道へ通じるほうに進んでいく。山に近づけばそれだけひんやりとした空気が流れてきて、頬が冷えた。家の中でくつろいでいたものだから、着ている上着も心もとない。サンダルの隙間から風は入る。マフラーのひとつでもあれば状況は違ったかもしれないな、と思いつつ、ポケットの中に指先を入れて寒さをごまかしたが、風が届かないだけで保温効果は特になさそうだった。
 もう片方のポケットに入れていた携帯が震えたので、ポケットからはみ出ていたストラップをひっ掴む。液晶には自動的に相手の名前が表示されるので、見たくなくとも目に入った。電話でないだけましかな、それでもメールだと文字として残るのがいやかもしれない、めんどくさいなあ、思いながら内容を見る。さっきは言いすぎたから戻ってきなさい、と男性が書く典型的なかわいげのない文面。
 家を出てから何分くらい経っただろうか、たぶんまだ十五分も経っていないはずなので、あともう少し外を歩いていようと思う。電源ボタンを押してとりあえずメール画面を消すと、再びポケットに突っ込み歩き出した。歩くたびに安っぽいサンダルとコンクリートのぶつかり合う、しゃりしゃりだかたしたしだか、間の抜けた音がする。

 空を見上げれば星がきれいだった。
 いつだかあの人が星の名前を教えてくれたときもあったなあ、本当の息子に対する本当の愛情を感じられる時期だった、それが崩れたのはいつだったか――なんて考える必要はない、とうに過ぎたXデーを振り返りながらため息を吐く。この奇妙な能力を手に入れて驚くことはあれど、嘆くことはなかった、少なくとも僕は。ただ、常人であった息子がある日不思議な力を手に入れて帰ってきたのだということを思えば、両親が嘆くことは想像に難くない。かわいそうに。完璧に他人事だ。
 僕と同い年の例の少女はものすごい力を持っているらしくて、不満がたくさんたくさんあって、耐えきれないからもうひとつの世界を作ってそこでいっぱい暴れるらしい。それっていいなあ、と思ったりする、だって何を壊しても今の世界には関係ないんだろう?
 僕はと言えば、不満が溜まってストレスが爆発して、何かに当たることも許されない、それらの不満を口にすることも許されない、すべてをため込んで我慢しろという。そして父親面。思い出せば、口の中に苦い味が広がった気がした。
 彼女と同じ力があればよかったなあ、でもこの力だけでもよかったかもな、化け物を倒すって結構昔のヒーローものっぽくてかっこいい。でもその法則で行けば、僕も化け物なのかも。いつか僕を誰かが倒しに来るのかも。

 とか、そういうどうでもいいくせして長ったらしいことを考えながら、同時に寒くて指が痛いなあとかそういう現実的なことも考える。少し歩いて行くと、小さな病院と、その近くに薬局と、そして自動販売機があった。さすがに時間帯が時間帯なので病院と薬局には光がないが、自動販売機だけは律義に光り輝いている。ああ本当、財布を持ってくればよかった。コーンスープ飲みたいな。自動販売機の前に立って、数秒そんなことを考えて、買えもしないのに料金だけ確認して、踵を返す。これ以上先に行くとそろそろ街灯がなくなり、暗くて危ういので。

 もう少し移動して、土手を歩きながら携帯を触った。ちょっと今日辛かったことがあったんだけど、と言って誰かにメールでも打とうかな。でもそれはたぶん、意味のないことで、送られた相手からしても全くどうでもいいことで、そのどうでもいいことに対して時間を費やして返信をさせるのは申し訳ない。
 じゃあいいや、と携帯をしまいこんだら、ふいに鼻の奥がずきずきした。あー、寒いなあ、本当。空を見上げると星がきらきらしていてきれい。こんなきれいな空を一緒に見る誰かも、起きた出来事を口にする相手も、今まで溜まった不満をぶつけることのできる場所も、会いたくて仕方ない人も今はいないんだ、寂しいな、そう思って視線を下げたら、勝手に涙が落ちてきた。
 こんなに寒いから、涙も凍るのかな。あんまりきれいに流れなかった涙はごろごろと、岩が傾斜を滑り落ちるような動きで落ちて行った。何がこんなに悲しいんだっけ、よくわからないんだけれど。立ち止まって空を見上げるとやっぱり星はきれいで、こんなにきれいで寒い空の下を一人で歩くこの寂しさ、とか、贅沢さ、とか、そういうあれこれが、なんだかもう言葉にならなくて、それで。

 どうやら僕は化け物らしいから、家に帰るのははばかられる、だって家にはただの人間がたくさんいるのだ。僕がいなければ父さん母さん、それからきょうだいとか飼っている犬とか、そんな人たちが幸せでいられるのかもしれないなと思うと、僕はこの空の下でずっと歩いているほうが良いのではないかと思う。なあなあ聞いてくれよ、こんな寒い空の下で今泣いてるんだ、意味わかんなくないか?そんな風にメールを送る相手すら、今は。今は。

 また歩みを再開させながら景色を楽しんでいると、携帯が震えて、まさか僕の心はテレパシーとなって誰かに伝わってしまったのだろうかと怯えた。そうしたらメールの相手は母で、内容は風邪をひいたらいけないから帰ってきなさい、それだけ。ばかだなあ、僕は化け物らしいから、風邪とかひいても大丈夫なんだよ、たぶん。携帯をポケットに戻してまた歩くと、国道を行き来する車のクラクションが山に響いた。近くのパチンコ店に団子のように固まって停まっている車が、こちらに気付いたように何回かライトを点滅させる。あちらからこちらの顔は全く見えないはずだ(だって僕が見えないんだから)。こんな時間に出歩いている一見未成年、を見つけてはしゃいでいるのだろうか、そんなつまんないことやってないで、さっさとパチンコで良い台でも見つけて当ててください。心の中で言ったので、テレパシーが使えるなら届くかもしれない。

 踵を返すのも癪で、とりあえずもう一度歩き始める。メールが来たからまっすぐ帰るのはただの良い子だ。でも僕は良い子ではなく化け物だから、少しくらいはのんびり帰っても良いだろう。帰る、そうか、まだ帰る家というものは、あるのか。
 僕が帰られなくなるのは、いつだろう。今はまだ義務教育に守られている僕も、あと少しすればその枠から外れる、その時がきたらきっと僕は、僕は?
 温かみを失って、ただうすら寒い空気だけが流れるこの家は昔ほど愛着がないけれど、去るときはやっぱり悲しいのかもしれない。でも、その時がきたら、その時で。時期を待っている僕もいる、両親はきっと、時期を待っている。
 さようなら。別れの言葉の練習をする。さようなら。さようなら。時期が来たら、すぐ言えるように。さようなら。うまく笑えるだろうか。いや、たぶんきっと、笑えるだろう。だって僕は、もうまともな人間ではないのだから。ばけものなのだから。
 さようなら。今までありがとう、さようなら。携帯を一度だけ開いて、すぐ閉じた。
 いつか来る別れのために。

 さようなら。











20100228/ばけもの歩く
古泉中学2ねんせい