つくづく人間の生態構造を不思議に思う。
正直、神経なんていらないんじゃないだろうか。いや、なければきっと困るのだろうけど。でも、神経なんて理性の前では脆い砂の城のようなものだ。僕の行動はほぼ反射で行われている。
昨日までは適度にあった肩幅は、今は小さく縮こまり、愛らしく震えて。色も幾分か白く、露出したことが無いかのように灯りを反射して光る。人間の理性というのは欲望の前でも脆い砂と化す。恐ろしいものだ。

「うあ、やめ、こいず、みっ、」

突き放すかのように僕の肩を押す小さな掌。いや、実際突き放そうとしている。それが、なんだろう。のれんに腕押し、という言葉が一瞬頭の中に浮かんでくる。のれんに腕を押し付けたら、確かにこんなふうに手ごたえが無い。まさにそれだ。僕の肩を押しているつもりなのだろうけど、僕にとって押されている、とは到底思えず、寧ろ適度に触れているともとらえられる力加減に、さらに欲が高まる。人間は欲に忠実だ。

「うあ!」

手を伸ばして頬に触れ、横にずらし、耳に触れる。敏感なのか、首筋を撫でると甲高い声を上げて体を痙攣させた。顔を近づけ、耳たぶを歯で挟んでみる。びくびくと震える肩から徐所に衣服を剥がしていくと、妙な温もりが胸元を支配した。人間の平均体温よりも、少し高い。それほどまでに体が緊張しているのかと考え、それも当たり前か、と思いなおす。
僕は何をしているんだろう。なんて、ひどい自問だ。たかが性欲処理であればこんな手ひどいことはしない。それなりの店に行くなり、自分で処理するなり、なんでもできる。ただ、違う。違うのだ。欲望があったから、それに忠実に動いているだけ。そうだ。

『キョンも女になればいいのに』

神はそう言って歯噛みした。
恥ずかしげもなく月経であると宣言し、その痛みも苦しみもわからない彼に、その痛みが少しでもわかればいいと、そうのたまった神。まさかそれが現実になるなんて――とは、驚かない。なぜなら、わかっていたことだったから。しかも今回、神は相当本気だったようだ。軽く思うだけでは神の能力はまだ不安定で、実現しない。けれど、本当になれ、と力強く念じたことは、本当に実現してしまう。
涼宮さんの痛みがわかりましたか、と耳元で囁けば、彼――、いや、彼女か。彼女はびくびくと震えて息を呑んだ。
くたりと力の抜けた足の間からは、濁った血液が流れている。ちなみに場所は部室。手ひどい、なんて問題ではない。犯罪の域にも入るだろう。けれど、今更とめることは出来ない。出来れば自分は相当な理性を持っていると自信が持てるだろう。

「女性体の苦しみが、わかりましたか?」

そう呟いて、ぬめる箇所に手を伸ばせば、驚くほど肩が跳ねた。「さ、わるなっ!!」怒気をはらんだ声が耳元できんきんと響く。

「触らなければできません」

強引に足を開いて、体を割りいれる。情事が終われば、終わった後は、恐らく殴られるか蹴られるか、最悪訴えられるか。まあどれもされて当たり前のことであるから、受け入れよう。苦笑して、流れる血を指先ですくう。
どろどろとした、ほぼ黒色に近い血からは特有の香りが漂っていた。今までそんなものと無縁だった彼女にとって、それは畏怖にしかならないだろう。指を1本突っ込んだだけで悲鳴を上げる。慣れない体に異物が入り込んできたら、当たり前か。

「お前なんかっ…………」

「…僕が、何ですか?」

言いかけた言葉を突然止めた彼女に、続きを促すよう触れれば押し殺した声が返ってくるのみ。
続く言葉は何だったのだろう。まあ、そうたいしていい言葉ではあるまい。死ね、か、嫌い、か。そんなところが相場だろう。その瞬間から、もう絶対に喋らないぞと決めたかのように声を押し殺し始めた彼女に、なぜか苛立ちすら覚えてくる。

「泣いてください。そのほうがまだマシです」

「ッ………」

「泣いてくださいよ」

彼女が泣かなければ、まるで和姦のようではないか。それは、彼女が可哀想だ。(可哀想ならやめてやれ、と脳内で誰かが囁いた気がした。それは無視した)もし今、自分が言っていることとやっていることの矛盾、していることの支離滅裂さに気づいているか?と問われれば、素直に頷く自信があった。
まるで誘われるように彼女の胸元に顔を近づける。薄く出来たふくらみの、そうだ、丁度心臓の下あたりに。吸い付けば、悲鳴のような声が上がった。

「っ、う………」

ほとんど泣くように小さく息を漏らした彼女、薄く開いた瞳からこちらを見て、視線が絡んでから――、

もう、何も覚えていない。相当酷いことをしたのだと思う。気づけば僕は、彼女を抱きかかえて眠っていた。はっと気づいて上体を起こし、乱れた制服を乱雑に直してドアに駆け寄る。ドアノブは、固く閉められたままだった。寝ている間に誰かに侵入された、ということはなさそうだ。ほっと息を吐いて、いまだ眠ったままの彼女の元へと戻る。
晒された胸元が涼しそうだった。上着をかけようとしたところで、今更現状のひどさに気づく。首から下、スカート丈よりは上の、普段は見えないであろう箇所に、まるでうっ血したように、斑点ができている。もちろんそれが何かは、わかる。所有物でもあるまいに、所有印だなんて、とんだ皮肉だ。心の底で自分を嘲笑った。
汚れたスカートが彼女の足元に無造作に放り投げられている。もうすっかり所有者の体温をなくし、冷えていた。血もかたまり、床にもひどい量の血液と精液が散らばっている。これは拭くのが大変そうだ、と今更冷めた頭で考えた。
湯を沸かし、沸騰する直前で止める。水と混ぜて温度を下げた後、タオルをしっかり湿らせた。彼女の、まず下半身に手を伸ばす。痛々しく腫れた部位、そこに、自分の出した汚いものがついているのだと、そう思うと、後悔せずにはいられなかった。馬鹿か。自分でしておきながら、そんなひどいことをしたと自覚しておきながら、後悔など。
タオルが触れた瞬間、彼女は身じろぎし、けれど起きはしなかった。事後処理をしたいのは山々だが、もっと触れれば起きてしまうだろう。いや、起こさなければならないのだ。起こさず部屋を後にするなんて、失礼にも程がある。まずは体中についた血と精液を拭き、さらに新しい乾いたタオルで乾拭きしてから頭の下に畳んだ上着を置いた。
セーターも脱ぎ、上にかけてやる。今頃彼女はどんな夢を見ているのだろう。手ひどい仕打ちを受けて、夢の中でも僕に犯されていやしないだろうか。
体の下に、誰が持ってきたのかはわからないがタオルケットを拝借して置いてやり、それから汚れた床を処理しにかかる。何度か拭かないと完璧に落ちそうにはなかった。
タオルを洗いに行かなければ、と立ち上がる。頭の中は思った以上に冷えてきた。どうして自分がこんなことをしたのか。答えは出ている。“彼女が好きだから”。なんて簡単な答えだろう。いいや、正しく言えば“彼”か。彼女が、彼である時点から好きだった。それでも、お笑いだ。彼が彼である時点では、僕の防波堤はまだ強固だったんだ。理性という壁は、驚くほど分厚かったんだ。だから大丈夫だと思った。彼女が、2人きりの部屋で無防備に笑顔を晒しても。大丈夫だと思った。…なのに。

「……………すみません。僕には、あなたに触れる資格すらないのに」

ぽつりと呟く。何を言っているんだろうと冷えた気持ちになって、急いでタオルを洗いにかかった。冷たい水が、手にひどく滲む。いっそ凶器ともいえるかのように、僕の手を冷やしていく冷たい水が、いつしか生温く感じられるころあいだった。まるで蚊が囁く程度に、背後から、声がした。

「……ぃ、ずみ………」

自分でも驚くほど肩が震えた。そのときの様子をビデオに撮って後から見てみたいと思うほど、間抜けに、派手に。まるで叱られた子供が大人を見るような目つきで見てしまったのだろう。振り返った僕の顔を見た、眠そうな彼女の表情は。次第に呆れた表情へとかわっていった。

「……、…」

お目覚めですか。と、言おうとした口が固まった。何も、口から出てこない。まずするべき謝罪さえも。引きつったように喉が震え、動きが止まる。流れっぱなしの水が、シンクに当たってばたばたとやかましい音を立てる、それだけが、場を支配する。
呆れた表情が、まるでいつくしむように見えたのは気のせいだったのだろうか。視界が、滲んできた。泣いているのは恥ずかしい、寧ろ泣くべきは彼女だというのに。行為中、彼女は1度だって泣かなかった。
僕が泣くのは、卑怯だ。

「か、…ろ」

ばかやろう、と彼女は言ったようだった。
さんざ悲鳴を上げ続けたせいか、声がひどくかすれている。ひどいことをしたと自覚するには十分な要素だった。冷たいタオルがシンクに落ちる、ボトンと音が響く。いててて、と呟きながら起き上がり、当たり前のように乱れた衣服を直し、よろめきながら歩いてくる彼女の足どりに、迷いは無かった。

「ないたらおこれねぇよ………」

――もういっそ、怒ってくれればよかったのに。
しゃくりあげて涙を流す。怒ってくださいと囁けば、彼女はわかったじゃあ怒る、ときっぱり言い切って僕の後頭部を力の限り殴る。はっきりとした、生々しい感触は今が現実だと思い知らせてくれる。これは夢でもなんでもない。

「おまえ、なんで、ないてたんだよ」

声が出ないのか、無理矢理搾り出すように出した小さな声。僕は唖然として目を数回瞬かせる。泣いていた?僕が?いつ?と、表情にはっきり出ていたのか、彼女は「おれをだいてるあいだ、ずっと」と補足するように呟いた。
泣いていたのか。僕が。泣かない彼女を目の前に、泣いていたというのか。

(お笑い話だ)

浮かべた表情が気に食わなかったのだろう、僕の額に小さな手刀を落とした彼女は、ばかだな、と再び呟く。

「おれは、おまえのしたこと、かんたんにゆるすつもりはねぇよ。……けど、かんちがいすんな。きらいには、ならねぇから」

咳と共に吐かれた言葉で。僕はそっと手を伸ばす。張り付いた髪の毛を払い、キスしてもいいですか、と呟き、返事を彼女が口にする前に塞いだ。情事の最中にそういえば唇へのキスはしなかったな、と思い出し、存分に味わうことにする。これによって彼女が先ほどの発言を撤回しないだろうか、と少し背中に冷や汗をかくことも考えたけれど、もう今の自分にはそれをさらに考える余裕は残っていないからと、考えるのをやめにした。










なれ吠ゆるか/踏みつけてくれればいい