『今空見てみなさい。いい月が見れるわよ!』

 圧迫感を感じるネクタイを緩めながら空を見た。ちょうど外回りの帰りで、学校帰りの学生や定時あがりのサラリーマンが街をゆらゆらと歩いている。建ち並ぶビルの隙間、奥のほうから、明るい雲が覗いていた。そのすぐ上に、白い月のようなものが浮かんでいる。お世辞にも、いい月とは言い難いようなもので、果たしてその情報を教えてくれたあの友人は本当にあの月を見ていいと言ったのだろうかと悩んで再び文面を確認したところ、添付写真があった。空は真っ暗で、確かに面白い、オレンジ色をした、いい月が浮かんでいた。

 残念ながらいい月とやらは見えなかった、と返してから、もう一度ネクタイを締めた。書類を会社に持ち帰って簡単な処理を終えたら、もう自分も帰る。そのころには、きっとあの白い色をした月もいい具合に色づいて、もう少し「いい月」に近づいているだろうと思った。
 いまだに高画質ではないカメラ機能のついた携帯を取り出すと、もう返信がきている。歩いているのと外の雑踏で何もわからなかった。開いた先には手紙の形をしたアイコンが、それを開けばさらになつかしい友人の名字名前が。今度は本文に何もなく、先ほどよりももう少し頑張って撮ったのであろう鮮やかな月が、添付されていた。
 同じ日本にいるのだからほとんど違いはないのだろうが、それでも少し距離が離れたくらいでここまで空の色が変わるのだろうか、と不思議に思う。けれど、今空を見てみろということは間違いなく、このいい月は俺が見ているあの白い月で、この暗い空も俺が見えいる薄い色をした空なのだろう。


 処理を終えて帰る道すがら、再び空を見上げた。空はいい具合に色づいていて、先ほど見たあの添付写真と相違ない。ああ、あの写真は間違いなくこれと同じ空と月だったのだ、と思いながら携帯をしまう。
 毎日、同じ時間に起きて同じ時間の電車に乗り、同じような仕事をこなして同じような顔をした同僚たちと別れ、同じような風景の中を帰る。ほんの少しのずれはあるがほとんど同じような毎日を過ごし、休日はたまに誰かと遊ぶ。必要なものを買いに行く。気分転換に長風呂をする。一日中寝る。それが終われば、また同じようなサイクルを。
 ふとその毎日の中で、若かったころを思い出す。あの日、同じように笑っていた顔を思い出す。肩を並べて座った、あの古い部室を思い出す。
 あの顔は今俺と同じように、同僚たちと同じように、笑みではないなにかを浮かべているのだろうか。俺や同僚と同じように、クサクサとした毎日を送っているのだろうか。俺や同僚と同じように、嫌いではないけれど好きとも胸を張って言えない仕事をこなしているのだろうか。俺や同僚と同じように、同じサイクルを過ごしているのだろうか。

 目の前の風景が滲む。あのころを、楽しかった、戻りたいと、猛烈に願う日はない。こうして人の波に呑まれて、流されていく自分を、嫌いではない。毎日同じような顔をしてこなす仕事のことだって、嫌いではない。それでも、同じサイクルで、同じように思い出すのだ。あのころのあいつらは、今頃どうしているだろうか。会いたいと思うわけでもなく、あのころのことを思い出す。あのごちゃごちゃとした日々を、いまだに強烈に色づいて忘れない日々を。いつか会いたいと言われたら会いに行くだろう、集まろうと言われたら集まりに行くだろう。それでも、自分から戻りたいとは、自分から会いたいとは思わないのだ。あの日々に、あの日々が大事だと思っていても、戻りたいと思うほど、今の自分に嫌気はさしていないのだ。
 へんなあだ名をつけられて、雑用として使われていた昔と、名字やときどき名前で呼ばれて、駒のひとつとして使われている今を、比べたりはしないのだ。

 それでもときどき、あのころの思い出からすっと抜き出たように、誰かから連絡がくる。元気か、とは聞かれない。会いたい、とも言われない。まるで今までずっと連絡を取り合っていたように、なんでもない、しょうもない連絡がくる。俺はそれに、なんでもない、しょうもないことを返す。そしてまた、サイクルに戻る。
 今の、嫌いではない現実を、指でつつくようにあいつらは触れてくる。それに俺は悲しくもないのに、なんだか突然泣きたくなるのだ。











20120109 そらはきれいです