にんげんは、不測の事態に陥ると反応が鈍るらしい。浮かべようと思っていた笑顔が突然その場で固まってしまったのを、この目で見た。…できすぎくんが少し崩れる瞬間っていうのは見物だな。まあ、こちらも見られて恥ずかしいものというか、そういう類のものを見られているんだからおあいこだが。
「あなた…、………」
続けようとした言葉が出ないくらいには古泉一樹は驚いているようだった。面白いぜその間抜け面。写真に収めて9組あたりに1枚200円5枚で1セット作って売れば売れるんじゃないだろうか、なんてことも考える。
俺の視界には確かに古泉の間抜け面が映っていた。――ただし、ぼんやりと、だが。
「なんで泣いてるんですか?」
うろたえる、もしくは極端に冷静になろうと頑張っているのか、言葉や声音はいつもどおりなのに表情だけ固く、おまけに手指が震えているという始末。俺はこんな場面を見ることができてよかったとなんとなく思うよ。こいつも同い年で、そして年相応の人間だったんだな、と思い知ることができる。いや、この反応は全年齢に関係なく当たり前の反応として受け入れられるのだろうか。
俺は片手に携帯を、片手にブレザーの裾を持ち、部室の隅っこでまるで子供のように泣いていた。多分、放っておいたら瞼は腫れるだろう。瞬きをするだけで痛い。息をして、そしてその息がかすかに目元を冷やす、それも痛い。ゆるゆると瞼を下ろすと、じんわりとしたかすかな痛みがまた俺を襲った。
「…古泉、泣く事はストレス解消に良いって知ってるか」
「ええ、はい。知っていますよ。ウィリアム・H・フレイUの感情で泣くとストレスが減少するという説でしょう」
「あー、まあ、そこまで詳しくは知らんがそれだ」
目尻から零れた涙を乱暴に拭い、そういえば瞼が腫れるから強く拭うのはご法度だったか、と思いなおす。濡れタオルか蒸しタオル、いや、それを交互に当てれば腫れが引くそうだが、家に帰ってから実践しよう。
とりあえず、といった所作で指定席に腰を下ろした古泉を一瞬見て、すぐに視線をそらした。俺に穴が開きそうなくらい、見ている。こっちを。
「…なにか、そこまで泣きたいほどにストレスがたまることでもあったのですか」
「まあ、な」
不本意だがこっちの言いたいことを察してくれるのはありがたいぞ、古泉。
持っていた携帯をポケットに突っ込み、立ち上がる。すぐ近くにあった窓を開けて、体を乗り出した。
「不思議ですね。普段、あれだけ涼宮さんの理不尽な振る舞いにも諦観を徹したあなたが」
「……今日は、少し悪い事が多すぎただけだ」
そう。例えば、授業中のことについて。家でのことについて。登校中のことについて。弁当について。教師について。上げていけばきりが無い、けれど積もり積もって山になる、という言葉の通り、ストレスは確実に俺の中に蓄積されていった。
けれど発散する方法というものを、知らない。うまくできない。眠れば多少は回復できるが、部活を休んで眠ろうなんてハルヒが許すはずもない。ものに当たるのは、なんとなくばつが悪いからアウト。ゲーセンで発散するにも時間が無い。叫ぶ場所も無い。
俺だけの脳みそではそれが限界だった。昼食時に谷口や国木田からストレス解消法について学ぶこと約5分。誰にも迷惑をかけず、それでいて短時間で済み、比較的簡単なものが、
「泣くこと、だったわけですか」
「おう」
どうやら谷口もごくたまーにだが、あいつにこんな繊細な一面があるなんて知らなかったが、いや、実のところ知りたいなんて微塵も思っていなかったし知るつもりも無かったが、泣きたいときがあるらしい。そんなときは、泣けそうなものを見て泣くんだと。普段あんまり泣かない上に、テレビでの感動系番組はもっと見ないもんだから、またもやここで谷口様様だ。
俺はポケットに突っ込んでいた携帯を取り出して開き、履歴からさっきまで見ていたサイトを開いた。質素なつくりのHPだが、これがまた哀愁を誘う。それを、ぽかんとまだ珍しく間の抜けた表情を浮かべている古泉に押し付けた。
「感動する実話…………?」
「まあ、読んでみろ。手っ取り早く泣きたいなら親子の話だ」
古泉が小さなディスプレイに目を通し始めたのを確認して、立ち上がる。鞄の中からタオルを取り出し、水を含ませ、目に当てた。なるほど、気持ちいい。そして、泣く直前まで胸でわだかまっていた奇妙な気持ちが、半分以上晴れている。全くその、ウィリアムなんとやらさんに脱帽だよ。いや、この場合は谷口か。泣いたら確かにスッキリした。
携帯の画面をひたすらスクロールして読み進んでいた古泉の瞳が、かすかに揺れたのを俺は見た。タオルを取り外した瞬間が良かったのか、しっかりと。悪趣味だと笑われるかもしれないが、俺は古泉が泣いているところを見てみたいと思ったことがある。それは普段見れないあの人の一面を覗いてみたいなんて乙女心では決してなく、純粋にあのすかしたツラが涙で歪むところを見てみたかっただけだ。ああ、全く悪趣味だと思う。
「…感動、しますが………、何故でしょう。涙は、出ません」
(チッ)
内心で舌打ちをして携帯をのぞきこんだ。
そこには、俺が目を通しておよそ10秒で涙を流した感動の実話がつらつらと羅列している。こいつは、これを見ても泣かないというのか。勿論俺が泣いたんだからお前も泣け、とかそういった気持ちでいるわけではない。ただ、なんとなく、不思議だった。
「あなたはこれで、泣いたのですか?」
「………悪いか」
まるで、「これごときで泣いたのか」とでも言われているようで、かすかに不機嫌になった俺の様子に気づいたのか。今更弁解するように手を上下させる古泉の、普段はあまり見ることの無い瞳を見つめる。今は俺から反らされているから見ることができる、わけであって、もしこの瞳がこっちを向いていたら俺はこんなにも真正面から見ることはできないだろう。
「いえ……、あの、…そうでは、なく…」
珍しく歯切れの悪い口調に思い当たり、俺は再び携帯の画面に視線を移した。勝手に画面を切り替え、今度はまた違った話を開く。それから、強引に古泉の掌に押し付けた。呆気に取られて画面と俺を交互に見つめるその瞳は、もう潤んではいなかった。
「自分の立場だったら、って考えるんだよ。自分に父親がいなくったって、いたと考えて読んでみる。涙腺の破壊力は抜群だぞ」
「…はい」
なんだか納得したような表情をしたので、俺はそのまままた目を冷やす作業に戻る。ぎしりとパイプ椅子が軋んだ以外、もう音はしなかった。ごくごくたまに、カチカチとボタンを押す音がするから、きちんと読んでいるのだろう。それから数秒後、途端にその音すら聞こえなくなって、俺はそっとタオルを除ける。
ハンサムな顔が歪んでいるところを綺麗にうつせるデジタルカメラを探したね。
「…ぷ」
「笑わないでください」
「泣いたな」
「あなたが泣けと言ったんでしょう」
「泣けなんて一言も言ってねえよ、俺は泣けたと認めただけだ」
「あなたは……」
こいつ、妙にかわいいところもあるんじゃないかと。ほんの少しだけ、思った。
携帯を受け取り、一番最後まできっちりスクロールされた画面。この話は5人の人物が登場するんだが、あいつは誰を誰に当てはめて読んだんだろうな?そして、それを思い浮かべて泣いたということは、少なからずあいつには心をきちんと置くことのできる人物がいるということだ。それが誰であれ、泣けるほどに喪失が悲しい、そんな相手がいるだけで。ようやくお前を真正面から見つめることができるんだよ、古泉。
fjord/たおやかなかなしみ
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