何も隠してなんかねぇよ、ふざけんな、どけろ。そう言ってやるつもりだったのに、口を開いて顔を上げた瞬間合った瞳から逸らせず動きが固まる。市丸はくく、と喉の奥で笑ったようだ。
その笑顔が気色悪い、と思って急いで数歩後ずさる。決して強引に何かを聞かれているわけではないのに、市丸の一挙一動が乱暴な気色がした。

「…なに、も」

ぽつりと呟けば、市丸が顔を上げる。「なにも?」鸚鵡返しをした後、冬獅朗に向かって一歩近づく。冬獅朗にとっての3歩は、市丸にとっての1歩だ。薄く口を開いた冬獅朗の腕を掴み、逃げを許さないように動きを留めた。

「………ねぇ、よ…」

「…聞こえんよ?」

「ッ、何も、かくしてねぇよ!」

やや乱暴に叫んだかと思うと、力いっぱい市丸の腕を引き離して踵を返す。無我夢中で市丸の傍から逃げた。その後姿を何もせず見送って、確信したように市丸は微笑む。













「…ッ、は、あ、」

軽い息切れを起こした。
たかがこの距離で、しかも、瞬歩を使ったわけでもないというのに。情けない。息切れを正すために襟元を少し広げる。
そのとき丁度目に入る胸。鬱陶しくて、仕方ない。これさえなければ、こんなに後ろめたいような不思議な気持ちで日々を過ごすことも無かったというのに。

「…隊長?何してるんですか」

「ッ、んでも、ねえよ」

瞬間的に襟元を正し、顔を引き締めて執務室に入った。心なしか室内が冷めている。落ち着いた空間に入ったのだと自分に言い聞かせて椅子に座り、積まれた書類に手を伸ばした。

「お茶いります?」

「頼む」

俺の行動はいつもより少し、おかしい。少しなんてレベルじゃないかもしれない。四六時中、ほぼ一緒にいる松本にはもうとっくのとうにバレているのかもしれない、けれど。
松本は何も言わない。それだけが、救いだった。知らないだけかもしれない。でも、気づいているかもしれない。本当は聞きたいのかもしれない。本当は、気になって仕方ないのかもしれない。そう、思いはしても、言う事ができない自分が腹立たしかった。

「はい、どうぞ」

「すまん」

机の左上に置かれた湯飲みを一瞬見て、それから視線を元に戻す。
まだ視界には松本がいた。「…何してんだ、さっさと仕事に戻れ」筆を持つ手を止めて顔を上げれば、なんともいえない表情で固まっている松本がいる。
彼女はゆっくり、体の向きを変えた。自分がいつも仕事をしている場所へ戻ろうと。けれどその途中、中途半端な体勢で止まって、冬獅朗に振り返る。

「…隊長…」

「あ?」

「………なんでも、ないです」

言うなり何事も無かったかのように仕事に戻って。
それを見届けた冬獅朗は、気づかれないように小さく息を吐いた。今ので、なんとなく確信した。松本は気づいている。気づいて、だから聞かないでいてくれている。
でもきっと、聞きたい。

(すまん、松本)

でも何も言えない。

熱いお茶をそのまま口に流し込んだ。
やけどしようが、構わなかった。