世界は静かに、静かに、静かに。
回り続けていたけど、それについていく気力も元気も命も無かった。
子供じみた理論も知識も、所詮暴力の前では崩れてしまうもの。
音も無く切り付けられた背中が痛む。痛いとは思わなかった。ただ、耳に入り込む無邪気な声が憎らしかった。
こんな風に、自分の世界が閉じていくのかと思うと切なくて悲しくて、やるせなくて、悔しくて。ちくしょうと罵っても罵るだけの声が出ることは無かった。
「…あー、あ」
ごぷり。唇から流れ出る赤い血液に、どんな言葉よりもまず先に無念だと思う。こんな路地裏で、ひっそり自分の人生を終えてしまうことも無念だと付け足した。
見上げる空は薄暗く、もう少ししたら雨も降りそうだ。白い着物はだんだんと赤く染まっていくけど、雨が洗い流してくれるだろう。そしてこの路地裏を、鉄くさいものに変えてそうっと逃げ去っていくのだ。
砂利の音がして顔を横に傾けた。黒い服に鮮やかな髪の毛。それが誰であるか考えるのに要した時間はたった3秒。
「なんだ、沖田さんですか」
「なんだとはなんでィ。この死にぞこない」
死に面した人間ですら容赦ないこの台詞。まあいいけどね、と吐き捨ててまた視界を空に戻した。
砂利の音が近寄り、そしてとすんと軽い衝撃が地面を伝って脳を揺さぶる。誰が隣に座ることを許可したんだと言ってやりたかった。
血が流れ続けて、地面を汚す。このままだと彼も汚れてしまうだろう。そう思って顔を上げたが、彼はこっちを見ていなかった。
「死ぬんかィ?」
「見てわかるでしょう、死にますよ」
しまいには能天気な世間話でも始めるような口調でそう問いかけてくる。ほとほと呆れて、もうどうでもいいと投げやりな返事をした。
そうしたら、あっそ、とまた興味の無い返事。だんだん疲れてきたし、体力ももう無いし、しゃべりたくないのも手伝って口を閉じた。
「なァ…」
「?」
彼の手が伸びて、こちらの黒髪を撫でる。眼鏡のフレームが曲がっていたのを見咎めて、それを取り外した。
「やめてくださいよ、最後の視界がぼんやりじゃつまらない」
呟くと、申し訳程度にフレームを戻した眼鏡が掛けなおされる。
レンズもひび割れていて正直どの視界も不快極まりなかったえけど、ぼやけているよりはましだった。
雨が降る。ぽつりと頬に降り注いだその水滴を、気力の無い瞳で見ていた。
「アンタを殺した奴って、どんな奴でさァ」
脈絡の無い問いかけに一瞬眉を寄せて、「多分、短髪の中背で猫背でひげの生えたおっさんですよ」そう言う。
背中から切りつけられたのだから、全貌を見たわけではない。第一死に掛けの人間をここまでしゃべらすのは非常識だと思わないのだろうか。
彼はやっぱりふーんと気の無い返事をした。苛ついてきて溜息を吐く。血も流れる。
「安心しなせェ、アンタを殺した人間は必ず俺が仕留めてきてやるんでさァ」
「心配すらしてませんよ…」
どっちにしろ相手は返り血で目立つばかりだろう。
考えるのも億劫で目を閉じた。
この世に思い残したことは、そりゃ確かに銀さんとか神楽ちゃんだとか姉上だとか知り合いだとか…思い出せば未練ばかりだけれど、もう考えることに追いつく力すら残っていないのだ。
ただ、人生最後に隣にいる男がこれだということはなんだか勿体無いような気がした。お通ちゃんがよかったなぁ、と思ってしまった。
彼の上司のタバコのにおいがぷんと香って、眉をしかめる。見ていたのか、彼は「しょーがねぇだろがィ。こっちだって好きでにおいが移ってんじゃねぇでさァ」と面倒くさそうに呟いて上着を脱いだ。
「意外に律儀ですねぇ」
「………」
何故そこで彼が黙ったのかはわからなかった。
次第に意識が朦朧としてくる。考える力も及ばなくなる。元気が出ない、気力がわかない。ああ、夕食は誰が作ってくれるんだろう。誰が作るんだろう。姉上だけは、姉上だけは絶対に作っちゃだめだ。僕の後を追う人が増えるから。
「じゃあ、さよなら」
それだけ呟いて、笑った。
目を開く気力が無かったから、彼の顔は見えていない。
網膜に焼きついた薄い色素の髪の毛だとか、肌に焼きついた彼の優しい手のひらで髪の毛を撫でる感触だとか、そういうものがやたら悲しくて涙を流す。
そういえば、人間は死んでも涙を流したりするんだよな…と思い出して、くたりと全身の力を抜いた。
「…さよーなら」
沖田は呟いて立ち上がる。最後の最後に、新八の頭を撫でることも忘れない。
手のひらにこびりついた血液をちょっとだけ舐めて、眉をしかめた。砂の味。
先程すれ違った血だらけの男は確か寅の方角へ逃げたはず。歩いて追っても追いつけるだろう。
振り返って、若き死体を見つめる。こんなのは似合わないけど。「元気で」そう呟いて適当に十字を切った。
仲間が死んだときは空虚な感じがするのに、この少年が死んだときには何も感じなかった。覚えたのはただ、あっさりすぎた、という感想だけ。
だけど逆にそれが彼の死を受け入れてない証拠にも思えて、悔しくて舌打ちをした。
「あばよ」
いきなり背後から聞こえた声に、男は笑いを止めて振り返る。
と、顔を真っ二つに切られた。額から顎にかけて何か冷たい氷のようなものが走ったかと思えば、次の瞬間には視界が真っ二つに引きちぎれる。
その中心には、髪の色素の薄い、まだ十代の青年が見えた。
「安心しな、つまんねぇからまだもう少し痛めつけてやりまさァ」
冷淡な声とともに、まだ感覚の残る胴体を何度も殴打される感覚。冷たい氷が内臓を出たり入ったりして、気持ち悪かった。
どどどどど、と赤い何かが視界を汚していく。青年の黒い対服も汚れているというのに、青年は微動だにしなかった。
「…あーあ、つまんねェよ」
最後に、ひと突き。
空を見上げる。雨はもう止んで、すっかり綺麗に晴れていた。
|