目が覚める。辺りを見回す。首を傾げる。声を出す。戸を開ける。外を見る。廊下へ踏み出す。声を出す。首を傾げる。目を閉じる。そこに座る。

真っ暗。








最近、変な夢を見るんです。
眼鏡をかけた人がいて、とても物腰柔らかで好印象な方なんですけど。恐らくあたしより上階級の方で、あたしは無意識に背筋を伸ばしてるんです。
でもその人を見るあたしはとても嬉しそうで、例えば廊下を歩いていたりだとか、隊舎で書類を書いていたときだとか、その人を見つけると面白いくらいにぱあっと笑顔を浮かべて名前を呼ぶんです。

『××隊長!』

名前の部分だけ、いつも聞こえない。パチパチパチって空気を潰すような音しか聞こえなくて。その間にあたしはその人の名前を呼んでいるんですよね、明らかに。絶対に。なんで思い出せないんだろう、おかしいな。
ねえ、乱菊さん知ってます?あたしじゃ、これ以上わからないんです。ただ絶対にその人のことを、あたしは知っていて、でも忘れている。これ、すごく悔しいんです。知的好奇心を満足させたいわけでも不満を解消したいわけでもなくて、純粋に、その人を思い出したいんです。知ってますか、乱菊さん。

そう問いかけたあたしの前で、金髪をさらりと胸に垂らした乱菊さんは薄く微笑んだ。ごめんね、私もわかんないわ。そう言って残っていた書類を手に取り、目を通していく。
茶を貰って寛いでいたあたしはそれを見ながら、少し落胆した気持ちでそうですか、と呟いた。あたしの記憶が間違っているわけではない。きっと、本当に、あたしはあの人のことを知っている。知っているのに、忘れている。忘れているのだ。

「……乱菊さん、仕事しながらでいいから聞いてください」

「んー」

書類に印と文字を書き込みながら乱菊さんは言った。あたしはそれをちゃんと受け止めてから、ありがとうございます、と心の中で呟く。

「…あたしね、その人のことすごく好きだったと思うんです。ううん、多分すきなんです。今も思い浮かべるだけで心臓がことこと喧しいの。あたし、悔しくて。好きな人を忘れるって、ものすごく苦痛なんじゃないかって。一瞬、あたしがこの世で一番辛いんじゃないのかなって思ったくらい」

一息に言い切ると、はぁ、と溜息をついて膝を抱え込んだ。膝に顔をうずめると、「情けないですよね、流してください」くぐもった声でそう言って黙り込む。
真っ暗な視界で、かさかさと紙を重ねる音が聞こえた。それから、しゅ、しゅ、と筆を走らせる音。ふぅ、と短い乱菊さんの溜息。

「雛森」

呼ばれて、反射のように顔を上げた。俊敏に。乱菊さんは相変わらず書類を見ていたけれど、あたしが顔を上げたと同時にこちらを向く。鮮やかな金髪に負けないくらいの鮮やかな瞳があたしをじっと見ていた。居心地が悪くてつい、身じろぎをする。

「それでもね、」

呟いた声はとても悲しそうだった。あたしが痛くなるくらい、悲しそうな。
びくりと肩が震える。まるで窺うような視線だったのだろう、乱菊さんはそんなに構えないでよ、というように笑う。

「忘れたことを覚えているということは、幸せなことだと思うわ」

さらりと、吐息のように言い切った。耳に入り込む悲しそうな声と、話の内容にあたしは心底言いようの無い気持ちを覚える。幸せと例えられたことに対する怒りと、あまりに悲しそうな声と表情に同情するような悲哀。
震えた唇で、彼女の名前を呼んだ。外界の音が彼女の声以外を遮断する。

「忘れたことは、いずれ思い出すことができる。でもね、忘れたいことって、全然消えないのよ」

消えないの。

あたしは弾かれるように立ち上がり、乱菊さんの視線から逃れるように隊舎から走り出した。ばたばたと忙しない音がしているのが自分でもわかったし、背中にねめつけるような乱菊さんの視線が突き刺さっていることも、わかっていた。

けれど逃げた。































「あーあ…………」

雛森が立ち去った際に起きた風で、数枚の書類が床に散った。それを中腰のままかき集め、一枚一枚確認しつつ数えていく。
ぴたりと手を止めて、思い出したかのように外を見た。開け放された戸の向こう、はるか向こうに慣れた霊圧を感じる。今日はあんなところまで遠出したのか、と思いながらからっぽの隊長椅子を見つめた。
ソファに背中を預けて、長く長く長い溜息を吐く。今日の来客は雛森、ただ一人。風の入り込む室内に身震いし、戸を閉めるべきか迷う。まあいいか、彼が帰ってくるまで開けておこう。

こつんと、握りこぶしを額に当てた。しかしすぐに離す。目を閉じてしまうといやなことばかり思い出す。
こんな、自分のことなんかちっぽけなようなものに見えた。雛森の言葉を借りるなら「この世で一番辛いんじゃないのか」。そう思った。乱菊さえそう思った、けれど。
彼の手前、こんなことなんでもないのだろう。なんでもないというのは言いすぎかもしれないけれど、確実に、自分より彼が。

「悲しませたら殺すって言ったじゃないの……………、馬鹿………」

まだ霊圧は遠い。







(――ああ、この室内は寒すぎる)