「ねーねー直斗くん、寝不足?」

 昼時、そろそろ昼食を広げようとしたときに久慈川さんがやってきた。見た目の華やかさとは裏腹に、手に持っている弁当箱の柄は渋い。おそらくお祖母さんが用意したものだろうとは簡単に考えつく。
 ごく当たり前に近くの席から椅子を引っ張ってきて、僕の机の前に寄せる。以前、久慈川さんが男性の椅子を掴んで移動させようとしたときに、その席の持ち主が異様に興奮したのを目の当たりにしてから彼女は女性の席から借りるようにしていた。
 弁当を机の上に置き、包みを広げようとしたところで、先ほどのセリフだ。

「寝不足っていうか……疲れ?」

「なぜですか?」

「顔がどんよりしてる。あと肌荒れてる、唇カサカサ、覇気がない!」

 バッサリである。
 まさかそこまで言われるほどかと思ったが、そういえば今日朝鏡を見た時に顔色が悪かった……ような気がする。肌荒れと唇に関してはちょっとよくわからないが。
 普段穏やかな表情の久慈川さんが、どこかぷりぷりとした表情で僕の顔を見つめる。額から顎まで、顎から額までと二往復ほどしたあと、小さくため息まで吐く始末。

「また探偵小説読んでたの?読むのはいいけど、ちゃんと寝る時間とらないと!」

「え、いえ……いや、まあいいですそれで」

 正しくは某彼のことを考えすぎて眠れなかった、だが、合間合間に資料や本を読んだのもあるのでそういうことにしておいた。
 久慈川さんがきょとんとした目をこちらに向け、そのままわずかに首を傾ける。大きくて丸い瞳に、小さくて丸い輪郭、顔のパーツがそれぞれ整っていて、なるほどアイドルとはこういうものなのか、とぼんやり思った。

「……なんかあったの?」

「いえ、ないですよ」

「うっそ」

「嘘じゃないです」

「じゃあ微妙に嘘!」

「いやだから」

 説明や弁明するのも面倒なので、そのまま手に持っていたパンを久慈川さんの口に押し込んだ。妙な音をたてたあとに小刻みにパンが揺れる。食べているのだろう。
 ある程度食べたあたりでパンを回収すると、不機嫌そうな顔があらわれる。お気に召さなかったようだ。せっかくおいしいのに、このジャムパン。

「なんか、あったんでしょ」

「ないですってば」

「嘘!あるもん!」

「えーっとね」

 どうかわそうかと思ったあたりで、席の近くを女子生徒が通る。瞬間、叱られた犬のようにぴしゃりと久慈川さんがおとなしくなった。女子生徒は自分の机から何かを探しているようで、この場から去る気配がない。対し、久慈川さんはもくもくと弁当の中身に手をつけていく。
 あった、という声を上げて女子生徒が去った瞬間、また久慈川さんがこちらを見た。

「……どうしたんですか?」

 あれだけ元気だったのに。
 小さな頬を軽く膨らませて、久慈川さんがこちらを見る。彼に甘えるときや巽くんに駄々を捏ねる時とはまた別の、むくれたような顔。
 ちらりと周囲を見たあと、手に持っていた箸を置いて、彼女はつぶやく。

「だって……、悩みって、聞かれたくない話でしょ」

「…………」

 ああ、気を遣ってくれたのか。
 どのみち言うつもりがなかったにせよ、普段自分の思うがままに動く彼女がここまで気を遣ってくれたことが嬉しくて、黙り込んでしまった。久慈川さんは弁当の中のものを一通り口に放り込んで、ひたすら咀嚼して、素早く食べ終えたかと思うと軽くこちらに身を乗り出す。試験前もこんなふうに真剣になってくれるとありがたいんだけどなあということは今言っていいことではないと思ったので黙っておく。

「私、言わないよ。でも、私に相談するのが嫌でも、何か悩んでるなら言ったほうがいいよ。だってそんな疲れてるの、体によくない。直斗くん、女の子なんだよ。悩みをためすぎると、あとからいろいろくるんだからね。デリケートな問題なら千枝先輩とか、雪子先輩とか。クラスの悩みなら私とか、完二とか。もっと深刻な悩みなら、花村先輩とか、悠せんぱいとか!」

 だんだん興奮してきたのか若干語尾上がりの言葉と、最後の名前で一瞬体がはねた。久慈川さんは気づいていない。ひたすら、なやみをためこむのはよくないの!とか、もっとじぶんをだいじにしなさい!とか、ごーるでんたいむっていうのがあってね、その時間はねなきゃ!とか、教師のようなお説教モードに入っている。
 言いたい気持ちも、聞いて欲しい気持ちも、当然あった。けれど、僕が相談したい、相談できると思う相手は皆何かにつけて聡く、例えばなしで濁しても気づいてしまうだろう。それに、僕が今悩むあの人の話なんて、久慈川さんにできるはずがない。彼女が彼に好意を持っていることは傍目にも明らかだし、何度となく聞いている。
 けれど。

「……もう、いいかな」

 久慈川さんと戦うつもりはないし、僕自身どうしたらいいのか、もう動く場所も手立てもなく、限界だ。
 動きを止めた久慈川さんに、屋上へ行きましょう、とだけつぶやいた。