電話ってものは便利でいいなァ、と電話口で穏やかな声。

僕はそうですね、と頷きながら、鍋の蓋を持ち上げた。ふんわりと湯気が上がる。途端に眼鏡が曇って焦った。
電話をしながら料理をすることは非常識だと姉が言っていたような、気がする。けれど今この家に姉は居ないし、だから僕も何の遠慮も無く自由に過ごすことができる。
ちらりとカレンダーを見上げると、暦はもう7月だった。月日は案外早く過ぎていく。その中の、8という日付に赤ペンで小さく丸が入っていた。確かそれを書き込んだのはもう3ヶ月も前のこと。

『お前、』

「え、あ、はい?」

りんりんりん、と鈴虫の鳴くような音がしたせいか、電話の声にも反応が遅れた。
落としそうになった鍋の蓋をひとまずまな板の上に置き、中身をかき混ぜる。味噌汁のいいにおいが漂った。
普通、味噌汁は朝作るものだろう、と彼がこの場に居たら言うのだろう。それを考えるとなんだか口角が上がる。

『…今、味噌汁作ってる』

どきっ、と、した。
からり、とお玉を手放す。「ど、うして、わかったんですか!?」驚いて声を張り上げてしまい、数秒後急いで自分の口を塞いだ。ククッ、と喉の奥で引っかかるように笑われて両頬が熱を持つ。
もしかして周りにいるのかと、いったん弱火にして蓋をして家中を駆け回った。厠、居間、庭、廊下、客室。当たり前だが誰もいない。
台所に漂っていた温かな空気が、どの部屋にも行き渡っていないからか足が冷たい。

『なんとなくだけどな。…お前今、家中駆け回ってるだろィ』

「…あたりです」

ここで反論しても何を言っても勝てるわけがないと思ったから素直に認める事にする。
お前はわかりやすい、とまた電話口で笑われた。悔しい。軽い足音をたてて台所に戻り、くたくたと沸騰する味噌汁のにおいを確かめる。
これ以上煮えると香りが飛ぶな、と思って火を切った。カチン。『今コンロの火切った』リアルタイムで状況を理解するなんて、彼は相当耳がいい。そして頭がいい。

「今日はわかめと大根の味噌汁ですよ」

『大根…ねぇ。』

「嫌いでしたっけ?」

『いや、別に』

彼の好き嫌い全てを把握しているわけではないから。
それでも、僕は彼の全てを知りたいと思う。そしてどこか、知ってしまったら危ない、とも理解している。絶妙なバランスで僕たちは成り立っている。

『味噌汁だけ?』

「あとは…、南瓜の煮つけと、漬物ですかね」

『質素だなァ』

はは、と僕も笑った。
でもなんだかんだで彼も質素な料理がすきなのだ。僕もそれは知ってる。実はピーマン料理が苦手だとか、甘すぎるお菓子は苦手、とか。
炊飯器の蓋を開けると、またぼやっと湯気が立ち昇る。今度は、と思いながら眼鏡をカバーしてみた。しゃもじでご飯をかき混ぜると際限なく湯気が上がる。こりゃいくら眼鏡をカバーしてもダメだ。好きなだけ曇れよこのやろう!と思って放置した。

『なー新八ィ』

「はい?」

お茶碗にご飯を盛り付けて、蓋を閉める。
ちゃぶ台の上に今日の夕食を並べると、質素ながらも温かかった。これがひとり分だというのが少し寂しいけど。

『…………』

「…どうしたんですか?」

『…………あ〜……』

「?」

いつもの彼らしくない。
いつもなら、こっちがうんざりするくらい言いたいことをずばずば言うのに。何か悪いものでも食べたのだろうかと、少し不安になったところでようやく彼が口火を切る。

『…い、たい』

「痛い?…怪我でもしたんですかッ!!?」

思わずちゃぶ台をひっくり返しそうになって急いで手を離す。
平静を装うふりをして立ち上がったけど、体の節々が小さく震えていた。どうしよう。どうしようどうしようどうしよう、彼が怪我をしていたら。どうしよう。

「沖田さんッ……?」

『……』

はやく、怪我なんてしてないって言って。
電話向こうに飛んでいける力があればいいのに、とありえないことを考えつつ、ぎゅっと目を瞑る。怪我をしてると知ったところで僕にできることなんて何も無いけど。

『…いや、怪我はしてねェけど、』

「……ッ……」

無駄に緊張した。強張った体からゆっくり力を抜く。はあ、と短い息を吐いてその場に座り込んだ。じゃあ何だって言うんだ。

『……あ、い、…たい』

「………」

『お前に…会い…たい?』

「何で疑問系なんですか………」

安心すると涙が出るってどこまで僕、彼が好きなんだろう。
どうしようかな。僕も会いたいですって言ってやろうか。そしたら彼は何て反応するだろう。
電話口でも表情が分かるくらい、びっくりしてくれないかな。今なら、呼吸でさえも全てが理解できそうだ。

「…ぼく、も。会いたいです」

だからはやく帰って来て。
おめでとうは、直接顔を見て言いたいから。









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