空が見えない。ただいま俺は絶賛死亡中である。鬱々とした空気に耐え切れず瞼を開いてやろうと思ったが、俺は死んでいたのだ。だから俺は何も言わない。相変わらず枕元ではうっだかひっだかわからないが、根つめたみたいな情けないしゃくりと引きつった声がするもんだから、うるせえ少しは黙れと言ってやりたくなった。古泉はうるさいままだ。
俺の死んで冷たくなった掌に触れる中途半端にぬるい掌は、俺の熱(熱が無い場合でも熱と言って良いのだろうか)を吸い取って少しだけ冷たくなっていた。それとも本当はこいつの手はあたたかくて、俺の冷たい温度を吸い取ったからこうして中途半端にぬるいのかも。まあそれもどうでもいい。果てしなくどうでもいいが。
どうして死んでしまったんですかという言葉に俺は、どうしてだろうなと心の中で返した。そんなもん知らない。死んでしまったにどうも何もクソもない。生きているうちならそれを言ってやれたのになとほんの少しだけ残念に思うが、残念に思ったところでそれは古泉には伝わらないのだろう。残念だ。
伝わる熱は俺の掌をほんのり温めただけで、体は相変わらず冷たかった。胸元もひんやり。足先もひんやり。腹なんか冷やしちゃいけない部位ランキングに堂々くい込むだろうに、冷え切ったままだ。それでも下さないのは俺が死んでいるからだろう。体中の組織が死んでいる状態で俺の意識だけフルスロットルである。すげえ俺。だからと言って現実にどう作用するのかと言われたら説明も何もできないが。
愛しています愛していますと古泉はうわごとのように呟いて、俺の指先を撫でた。お前の掌、魚の腹みたいにすべすべしてんな。俺がいつしか荒れたお前の手に呆れて買ってやったなんたら要素配合のハンドクリームをつけてくれたんだろうか。つけたんだろうな、こいつは俺からもらったものは何でも大事にするやつだから。ああ今恥ずかしいことを考えた。恥ずかしいからここは顔を多少なりとも赤らめて照れるところだろうがそんなことできるはずがない。なぜなら俺は死んでいるから。なぜなら俺は死んでいるから。
俺は死んでいるからお前に触れることもできないんだごめんと、それだけ言ってやりたくて、死んでいる自分に少しだけ後悔した。古泉お前はかわいそうだよ。かなしい思いを抱えるおまえをだいじにしてやりたいと思う。思った矢先に死んでいるなんて俺もかわいそうな結果だ。お前を抱きしめて、かわいそうにと言ってやれるだけの力量すら今の俺には残っていない。かわいそうに。せめてなにか、せめてなにか。なにかをすることすらできないおれたちはかわいそう。
それでも俺のあとを追わずにお前が生きていてくれることを俺は幸福に思う。俺が死んだら真っ先に後を追いそうなお前でも、案外頑張ってくれるんだとなんとなく感嘆した。よろよろの声は耳元で聞こえて俺の掌を握る手はがたがたぶるぶると震えているというのに。おまえは、えらいよ。えらくていいこだよ。撫でてやりたい。手は動かない。なぜなら俺は、なぜなら、なぜなら――。
これが夢なら覚めればいいのに。お前は俺にこれは夢だと言ってくれない。さめたら俺は、悪い夢を見たといってお前を抱きしめてやることができるのに。魚の腹みたいにつるつるした掌は今も俺に触れたまま。情けなく震えた声も耳元で続くまま。空は見えない。古泉の顔も見えない。
そして俺の手指も動かないまま。
さようならですか #−1
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