ああかわいそうに、と思った。そしてそれは確実に、かわいそうな生き物だった。震える小さな体、しゃがみこんだ体、縮こまった体、かわいそう。それを見ているだけの姿は、傍から見たらどう映っただろう。手を伸ばして声をかけることもできたと思う、けれど。そうするだけの気力と思いやりは残されていなかった。死んだらかわいそう。死んだひとを思って涙を流す彼女はかわいそう。えらく冷たいこなのね、と呟かれたような気がした。
水が床を伝ってこちらまで流れてきたのをぼうっと見ながら、この水は彼女の流した涙のすべてなのだとぼんやり考えた。もしそうであれば、彼女はそれほどまでに悲しい思いを深淵に溜めて、そしていつか壊れてしまうのかもしれない。その未来は知らないけれど、もしそうなってしまったらそうなってしまったで別に構わないのかもしれない。世界は分岐していて、修正することは今の自分にはできないのだから。涙を流す彼女はかわいそう。
眠ったらどうですかと提案すると、そうしたらいいかもしれないわねと彼女は言った。泣きつかれて兎の目になったそのくりくりとした瞳を、瞼で多いかくして、少し眠るわと言って眠った。床に伏した体はかわいそう。
眠る先にある夢はいったいどんなものなのだろうと、想像しても意味の無い想像をしてみた。もしかすると彼女は、また夢の中で同じ大切な人を失っているのかもしれないと考えると、またかわいそうだと思った。かわいそうな人はかわいそう。せめて安らかに眠れるようにと流れる黒髪を撫でると、はじめて触れた感触が生々しくて怖くなって、やはり逃げてしまった。触れるべきではなかった。触れた指先が痺れるみたいで、怖くて逃げてしまいそう。ここから。すべてから。
体感時間ではまだ二・三分だったけれど、彼女はすぐに目覚めた。よく寝たわという口ぶりから嘘じゃないみたいということだけはわかったけれど、眠れたからと言ってすべてを忘れられたわけじゃないということだけはしっかりわかった。良い夢は見れましたかと問いかけた瞬間、うそみたいに表情を消した彼女に罵倒された。良い夢が見れるはずがないじゃない。どうしてそんなことを言うの。なんであなたがそんなことを言うの。ああいっそあなたがしねばいいのに。確かに死ぬべきなのかもしれない。後を追ってしまいたい。
でもそう考えた矢先、彼女はやっぱりだめと言ってしなないでと付け足した。あなたが死んだら死んだ先の世界であなたとあいつで二人きりになっちゃう。アダムとイヴになるわ。という、そもそも死んだ世界ではアダムもイヴも何も無いと思うのですがと言いたくなる理論を展開して死んじゃだめとまた呟いた。
あなたの小さくてやわらかい体にあいつが欲情したらどうするのと彼女は言った。さあどうなるでしょうわかりません。少なくともあたしは、彼が好きだったので、別にそれでも構わないかもしれません。あのひとがいなくなったこの瞬間、恐怖するものはなにもないのです。あなたが世界を壊しても、彼がいないのであれば世界崩壊も怖くありません。
泣いたらどうなの、と彼女が呟いた。そう、確かに。泣くべきなのかもしれない。泣いたほうが彼にとっても自分にとっても良いことなのだとは思う。世界と彼とお別れ。でも涙を流す方法がわからないんですと呟くと、かわいそうな彼女はかわいそうにと呟いた。
泣くこともできないのね、かわいそうに。
さようならですか #−2
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