煙草の臭いがする。

 その発言に、一瞬何を言われているのか解らず呆然としていると、聞き返す間もなく頬を叩かれた。バチン、という音がして頬が遅れて痛んでくる。ヒリヒリと、多分音にすればそんなのだろう、ゆるい痺れが頬の表面を撫でるような感覚がして、そしてまた遅れて頬が熱くなって来た。

「……あ」

 叩いた本人が呆気にとられていて、俺の頬を叩いた掌をじいと見下ろしている。力いっぱい、というほどではないが、軽く叩いた、というものでもなかったな。この人に暴力を振るわれたのは初めてだとぼんやり考えながら、うろたえる表情を見上げた。
 黙りこくったままの顔が次第に青ざめてきて、俺の頬を叩いた手が再び頬に伸びてくる。ただし今度は速度を伴わない。ひどくゆっくりと、スーパースローモーションもびっくりの速度で手が忍び寄ってきて、俺の頬に滑った。温かい掌が熱い頬を撫で、震える唇がごめんと紡ぐ。

「……ごめん」

「………」

「…ごめん、本当にごめん」

「………」

「ごめんよ、ごめん、ごめん、ごめん……」

 別に謝って欲しいわけじゃない。
 痛いんですけど、とこの痛みを主張したわけでもないし、俺としては叩かれた理由がわからないからそこを教えて欲しい、それだけしか思っていないのだが、目の前の彼は適度に逞しい肩を落としてしょげていた。
 どうして殴ったんですかと小さな声で問いかければ、ゆっくりと顔が上げられる。悪いことをして親にしかられたときの子供みたいな表情だが、俺よりも一回り近く上だ。頬に触れっぱなしの手、そこに繋がる手首を持ち、遠ざけると、息が触れた。

「だって、君、煙草を吸わないだろう」

「……そうですね、まだ未成年ですから」

 今のところ成人しても煙草を吸うつもりはさらさらない。あんな健康に悪いものを自ら進んで吸おうと考える概念すら持ちえていない。酒は多少嗜むものの、あんな臭い体に悪い金がかかるの三点セットなんて、俺は吸った覚えがない。

「だから、君が、煙草を吸う、誰かと、……浮気、したんだと」

「………は?」

「………思って、」

 俺の肩口に額が落ちてくる。それを避けるべきか受け止めるべきか迷って、結局タイミングを逃した。汗のにおいがする首元が鼻先にあって、いつもなら心地良いと思っていたはずのそれが、なんだか今はひどくどうでもいいものに思えて、なんだか笑えた。
 浮気、かあ。浮気。残念ながら付き合う人間を大幅にストックできるほど俺は魅力的ではないし、そこまで器用ではありません。恐らく煙草の臭いは今日学校で呼び出しを受けた際に、喫煙室で話を聞いたからでしょうかね。冷めた声音で簡潔にそれを説明すれば、肩口にひっついていた額が浮き上がり、必死な顔がこちらを見る。

「そんなことはない!君は、とても魅力的で」

「………はあ」

「だから、だから………、」

 だから、浮気をした?
 そんな安直な考えで疑ってかかって、そして俺の頬を叩いた?

 にこりと微笑んで目の前の男の頬を撫でてやる。剃り忘れたのか剃り残したのかは解らないが、指先にザラリと硬い感触がした。ここに頬を摺り寄せるのは存外嫌いではない。だけれど、今はそんなことをするつもりにはなれなかった。
 解け掛けていたネクタイを再び結んで、開かれていた胸元のボタンを閉める。俺の行動でなんとなく事態を察したのか、ごめん、と謝りながら腰に縋りつかれた。俺はそんなことをしてほしかったわけではなくて。

「君が、君がすきなんだ、好きで、すきで、浮気をしていてもしていなくても、とにかく、君がいないと」

「………」

「君がいないと、俺は駄目に、なってしま、うよ。嫌だ、行かないでくれ」

 キスだってセックスだってこの人とは何度でもしたけれど、好きだという応酬も何度も交わしたけれど、どうしてこうもあっさりと俺の気持ちは冷めてしまうのだろうね。まだこの人を好きでいたいという気持ちは残っている。けれど彼が一言一言俺に愛を囁くたび、俺の心から恋情と言うものは少しずつ少しずつ欠けていってしまって。
 ああ言わないでくれと、そう思う。行かないでくれ、君を、と呟く彼の、口を塞いでしまいたかった。君を。その先は言わないで。言ってしまえば俺はもう戻ることができない。さようならをしなければならないから。

「君を」

 頬のほてりが冷めていく。

「愛しているんだ」




 ―――ああ。




 部屋の隅に転がしていた鞄を手にして、俺は立ち上がった。ずれたズボンをなんとか持ち上げ、ベルトを締める時間も勿体無いといわんばかりに歩き出す。
 フローリングの床は冷たく、そこに放置されっぱなしの、脱がされた靴下を拾い集めて鞄の中に突っ込んだ。冷える足元だけはどうしようもない。今から靴下を履きなおす余裕もない。時間も無い。ここにいたくない。
 待ってくれ、と叫ぶ男を一瞥して、俺は出来うる限りの笑顔を浮かべた。長いこと世話になった人だ。寂しいお別れは好きじゃない。

 けれど壊したのはあんただ。

「………俺、言いましたよね」

 男は俺の言葉に一瞬きょとんと目を丸めて、それからざあ、と顔を青くしていく。ああ、ばかなひと。言わなければもう少し続いたかもしれないのに。でもきっとだめだろうな、一度冷め始めたら俺は止まらないから、例え続いたとしてもあと一ヶ月程度の命だっただろう。

「愛してるって言葉は嫌いだって、言いましたよね」

 にこりと微笑んで、軽く一礼した。
 まだ引きとめようとしてくる男にはもう顔を向けない。靴に足を突っ込んで、合鍵は玄関先の収納だなに置いた。どっちにしろ最初から、形として残るものはここに置いていない。俺が唯一学んだこと。形として残るものほど迷惑で処分に困るものなど無いということ。

「さようなら」

 小さく呟いてドアノブをひねる。追いかけて暴力を働かれる可能性は無きにしも非ずだったが、やはり彼は人柄の良い人間だったようだ。泣きじゃくる音が聞こえる。
 高級な質感のドアを閉めると、もう何も聞こえてこなかった。乱れた髪の毛を撫で付けて、帰路に着く。
 そう言えば明後日、彼に泊まってくれと言われていたから不思議探索は欠席するとハルヒに伝えたんだったか。予定が空いたから参加できるとメールでも送っておこう。きっと今更何なのよと怒鳴られるに違いないが、きっと許してくれる。あいつはなんだかんだで、良いやつだから。
家でのんべんだらりと過ごすよりは、ハルヒたちと一緒にトンチキ騒ぎをするほうが、ずっと有意義な気がした。
 折りたたみ式の携帯を開く。しかしメールボックスを開くわけではない。俺がまず真っ先にやったことは、あの男のアドレスを削除することだった。