その日の授業は早く終わって、担任の授業だったためそのままSHRに移り、それもまた手短に終わったため、なかなか早く部室に向かうことができた。
基本的に僕が部室に到着するのは遅く、そのため一番乗りということを体験したことが無い。彼もたまにそういったことをこぼしているが、どう早く向かっても長門が先に居るんだと、そんなことも言っていたな。しかしまだSHRが始まって間もないこの時間では、長門さんもいないのではないのだろうか。
目前に近づいた扉を見て、頬を緩めた。もしこれで一番乗りであったら、彼に軽く自慢でもしてみよう。どんな顔をするだろう。自慢をした僕に呆れるか、純粋に羨ましがるか。彼のキャラからして、後者の可能性は低いが、言って見る価値は十分にありそうだ。
さすがにこの時間帯に朝比奈さんが着替えをしていることもないだろうからと、ノックをせずにドアノブに手をかける。
「………うん?ああ、そうですね」
その瞬間聞こえてきた声に、ひゅっと喉を鳴らせて、ほぼ反射で手を放した。
(……彼?)
しか、いないだろう。聞きなれた声に、この部屋に来る男性と言えば、彼くらいしか思い当たらない。腕時計を見るが、まだまだ時間は早い。それにもし彼のクラスも早くSHRが終わったのならば、涼宮さんもいるはずだ。
まさかサボリ、その三文字が思い浮かび、どうするべきか数秒迷う。どうしたんですかと何事も無かったかのように入る、か、この場を退散するか。そしてチャイムが鳴る頃にこれまた何事も無かったかのように入るか。
その二つの選択肢が頭の中に浮かんだというのに、僕が実行したのは、存在しない三つ目の選択肢だった。ドアの前にしゃがみこみ、ドアに耳をつける。ガラスに姿が映らないように。体が安定するように。声がよく聞こえるように。
なんて悪趣味な人間だと、心の中で自分自身を罵って、彼の言葉の続きを聞いた。
「いや、はは、そんな。そりゃ、データは消しましたけど」
敬語を、使っている。彼が。ならば年上相手だろう、つまりは、その、もしかして、新しく出来た恋人、だろうか?
「ひどいって、ひどくないですよ。別れたんでしょう、俺たちは」
……違った。正しくは、元恋人、だ。
ならばこの会話は、早々に終わらせたほうが良いのではないだろうか。もし涼宮さんが、いや、この場合は長門さんでも朝比奈さんでも、来てこの会話を聞いてしまったら一大事になるのでは。そうしたら僕が彼女たちを止めるべきなのか、彼女たちが来た瞬間僕が彼を止めるべきなのか。
ああだけど、この会話を聞いていたいという僕の気持ちもあって、とにかく困る。
「空いてる日は……、ありますけど、あなたに会うために用意できる日は無いです」
耳に入ってくる言葉はどこまでも残酷なのに、その声音は優しくて、なんだか心臓がぐにゃぐにゃと奇妙な気持ちになってくる。
いつもの彼の声とはまたほんの少し違う、柔らかな響き。僕たち団員に向けられることはないであろう、甘えているような、そんな響き。目を細めて、聞き入ってしまう。
「ありがたいですよ、そう言ってもらえるのは」
何を言われているのだろう、と考えるほど、僕も初ではない。きっと電話向こうでは、彼に対して愛の言葉を誰かが吐いているのだろう。どんな人かも知らない。けれどその人は、僕よりも彼を知っている。それが、なんだか、悔しいような、羨ましいような。
何故僕がそんな気持ちにならなければならないのか、意味が解らず首を傾けた。
「はは」
彼がやわらかく笑った。僕の好きな笑い方だと、ほんの少し思った。普段あまり、涼宮さんたちに向けないタイプの笑い。吐息に乗せたようなその笑い声が、耳に入ってすうっと体内に溶ける。
どれだけの人数の男性が彼に心惹かれたのかはわからない。けれど、何故彼を好きになるのか、その理由だけはなんとなく、わかるような気がして。
「でも、すみません」
階段の向こうから、涼宮さんの笑い声が轟いた。ああ、と僕は心の中で思う。彼女が来てしまった。しまった、という言い方は非常に良くないことはわかっているのだけれど。彼に、告げるべきだろうか。もう人が来ますから、その通話はそろそろおしまいに、と。その一言を。
けれど、それは僕がしなくとも必要は無かったらしい。元々古い材木でできているドアはしっかりと音を通す。涼宮さんの高い声はほどよく通り、電話をしている彼にも届いたらしい。
「……ああ、もう部活始まりそうなので、そろそろ」
僕の心配は杞憂だったなと思いながら、鞄を持って立ち上がる。遠くからやってきた彼女たちが、僕の姿を認めて手を挙げた。それに振り返しながら、反対の手でドアノブを握る。これだけは言っておきますからと、彼のひそやかな声が聞こえて、その手の動きが一瞬遅れた。
半開きになったドアの向こう、窓際の椅子に座った彼は、どこを見ているのかもわからない瞳で、冷たい口元で、一言。
「俺はもう、あなたのことを好きじゃないんです。それじゃあ」
相手の言葉も待たないで、携帯の電源ボタンを押す姿が視認できて、いったいどうしようかと思った。
その冷えた声音が、自分に向けられたものではないということを頭の中で理解しているというのに、心臓がばくばくと脈打ち、寂しい気持ちが胸を襲う。僕は、どうして、こんなことを。間違っている。僕のこの気持ちは間違っている。僕が言われたわけじゃない。
携帯電話を胸ポケットに押し込んだ彼は、僕を見上げるなり淡く微笑んだ。へんなもん聞かせて悪かったな、と言いながら立ち上がる姿は、どこか細くて、頼りない印象を受ける。
「いえ……」
思わず口からこぼれた間抜けな響きに、自分自身が情けなくなった。彼は何事も無かったかのように移動すると、定位置に座り込んで僕を見上げる。今日はオセロでもするか、と言うその唇を見つめながら、僕はゆるく頷いた。
入ってくるなり彼に掴みかかった涼宮さんを見ながら、朝比奈さんや長門さんに挨拶をする。やはり彼はSHRをサボったようで、涼宮さんはたいそうご立腹のようだった。いつもであれば、今日はもしかすると神人が出るかもしれないなという憂いを感じたり、できれば早く帰りたいと内心溜息をつくところなのだが、今はそんなことより、彼のことばかりが頭の中を支配する。
僕はきっと、おかしいのかもしれない。意識のしすぎだと言われればそれだけで終わりそうな、瑣末な話。彼のことを考えすぎて、自分が気持ち悪い。彼に対して特別な感情を持っているわけでもないのに、何故こんなにも考えてばかりなのか。考えなければいいじゃないか。
ああ、なのに、あの言葉を僕が言われたら。なんだか泣いてしまいそうだと考えて、その思考にうろたえた。
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