「あなた、猫に似てるってよく言われませんか」
部室の隅の椅子に足を乗り上げ、所謂体操座りというものをしていた俺に向かって、急に古泉が問いかけてきた。
ハルヒと朝比奈さん、おまけに長門もいない部室。あたしたちが戻ってくるまでちゃんとここで待機してなさいよ、と言われるままに待機していた俺たち。最初こそボードゲームで時間を潰していたものの、あまりにも勝負にならないので俺が一方的に飽きてやめてしまった。いや、古泉も内心では飽きていたのかもしれない。今のところこのボードゲームの対戦で、俺が負けたことは数えるほどにしかない。
あの三人娘は何をしているのやら、と頭の片隅で思いながら、長門の本をぱらりとめくる。膝の上に置いたハードカバーは見た目以上に重い。古泉はいったい何をしていたのか、物語の序盤から魅かれてしまって様子をまったく見ていないせいでわからないのだが、とにかくひとりで詰将棋でもしていたような気がする。で、冒頭のセリフに戻るというわけだ。
いったい詰将棋からなぜその言葉に繋がるのか俺には理解ができないが、古泉の脳は何やら奇妙なバイパスで詰将棋と猫を繋げてしまったらしい。かけられた質問には答えるのが人間の常識だろうが、いまいち質問の意図が理解できなかった俺は、質問に質問で返した。
「なんで」
なぜ、とかどうして、とか聞くよりも些か幼い言葉になってしまったのは、昨日会ってきた男が非常に大人っぽい人で、俺を子供のように甘やかしたからだろう。ちなみにまだ彼氏ではない。それらしい匂いを漂わせるメールが頻繁に来るので、近いうちそうなりそうな気もするが、まだ俺のほうが気持ちがついていかないので、決定的な言葉を吐かれても関係は保留だろう。
いや、そんなことはどうでもいい。今はそんなことに思考を割いている場合ではない。古泉が質問をしてきた。だから俺はその質問に反応する義務がある。
俺の問いかけに、古泉はまるで困ったような表情を浮かべ、それを無理やり笑顔に変えた。
「気付いてないんですか?」
「なにを」
あなた、と言って古泉がこちらに向けてくる指先を見て、存外きれいなもんだな、と思う。顔だけはやたらと美形で身長も嫌味かと思うほどに高く、決して太すぎない上に筋肉がそこそこついているときた、のに。指先だけはどこかごつごつしているような。それでも綺麗だと思えるような。卑怯なような。
その指先をじっと見つめていると、古泉は俺が不快に思っていると勘違いしたのか、すみませんという一言とともに指先を引っ込めた。些か残念な気がしないでもない。
で、なにを?
「たまに、くぁ、って小さくあくびをするんです。そのあと、背中だけぐっと伸ばしたり、手の甲で頬をこすったり」
「……してたか?」
悪いが一切記憶にない。言われるままにその動作をしている自分を思い浮かべて、あまりの気持ち悪さに若干嫌悪すら覚えたが。と言うか何をしているかと思えば俺の観察か。よほど詰将棋がつまらなかったのか。相手をしてやらなくて悪かったと今更思う。
古泉はまるでいつくしむものを見るような瞳で(まさか)、くすくすと笑った。わらった。見たことのあるその雰囲気に、ぞくりと背筋が緊張する。
古泉はそんな俺を見て、また、笑う。
「今、びっくりしてます?」
「……なんで」
「肩が強張って、全身が緊張してますよ。たぶん猫だったら、毛を逆立てていたでしょうね」
知るもんか。
本当におかしそうに古泉が笑うものだから、緊張するのもおかしくなってやめた。いや、自分から意識的に緊張したわけではないが。緊張って、意識してできるもんじゃないだろう。どうでもいいが緊張緊張言い続けると緊張がゲシュタルト崩壊しそうだな。
一瞬だけ古泉の瞳に浮かんだあの色は、俺の見間違いだったのか(いっそそうであってくれ)、もう見えることはなかった。面白いびっくり箱を見つけたみたいな顔でいつまでも笑う。でも、その表情はその表情で珍しい。
そんな幼い表情なんてついぞ見たことがなく、俺はふいに自分の中に、小さないたずら心が芽生えるのを感じた。
「……まあ」
わずかに肩を震わせる古泉がこちらを見て、こくりと首を横に傾ける。
「ねこっていうのは間違いじゃないんだけどな」
「は?」
今度は古泉が驚く番だった。目をぱちりと瞬かせる。長いまつげが上下に動いて、見ていて面白い。
かと思っていたら今度は急に顔が真っ赤になって、古泉が自分の口元を手で覆い隠した。もともとあまり日に焼けないらしい生白い肌が、ほのかに赤くなるのはなんとなく女の子を彷彿させる。でもやっぱり、その口元を覆う手はごつごつしていて、女の子とは似ても似つかない。庇護欲もそそられない。
と、どうでもいいことをつらつらと考えていると、ふと思い立った。一応専門用語を用いてみたわけだが、こいつには通じた。つまり、
「それなりの知識があるってことか?」
問いかけると、今度こそ古泉が机に突っ伏す。
こんな風に子供っぽい動作を返す古泉は珍しくて、俺は面白くて、何度も古泉の旋毛をつつく。縮め、と呪詛のようにつぶやくと、やめてくださいとかすかなつぶやきが返された。
机に突っ伏したまま、古泉はさらに続ける。あなたはなんて、とか、ああもう、とか、そんなわけじゃ、とか。どうでもいい。でも耳まで真っ赤だ。
顔を隠したいのか、頭を守りたいのか。どちらかはわからないが、古泉が億劫そうに左手を持ち上げた。それを耳の横に持ってきて、頭に寄せる。手首に巻きつけた銀色の時計、それをひっ掻いてみたくて手を伸ばす。文句は言われない。かりかりと指先でひっ掻く。
「やっぱりねこみたいですね」
「爪はないけどな」
なんせ昨日切ったばかりだ。
それに、爪とぎもしないし、トイレに砂はいらないし、首輪も不要だし(まれにそういうプレイに誘われることはあるが)、風呂は嫌がらないし、牛乳だって平気だぞ。乳糖に負けるような弱い胃ではないはずだ。
そういう問題じゃないんですよ、とは古泉。どうでもいいが、声がこもって聞き取りづらい。て言うかやっぱりあなたが下っかわだったんですね、と言われて、よくわからないままに頷いた。俺の頷きなんて見えちゃいないだろうが。あとお前ちょっと敬語崩れてると思うぞ。
「男のひと、に、抱かれて、気持ちいいんですか……」
守り切れていない旋毛をつんつんと押しながら、んー、と間延びした声を出す。古泉がただの好奇心から聞いているのか、他の何かで聞いているのか、声音からは読み取れなかった。さらさらに流れる髪の毛は、男にしては細すぎる。
「きもちいいよ」
きもちいいよ。たぶん。とても。お前は知らないだろうけど。
でも知らなくていいよ、とも思う。知らない方がずっといい。綺麗でうつくしい(あれ、これって同じ意味か)、そして卑怯なおとこ。お前は女の子に突っ込んで孕ませるくらいがちょうどいい。
俺が迷いもなく言い切ったからか、古泉の耳はまた赤くなった。
際限無いその赤味に触れてみたくて、手をずらす。耳の産毛にそっと指先が触れた瞬間、盛大に古泉の肩が震えた。びくっ、とか、どきっ、とか、そこらへんの擬音が非常に似合いそうな。
かと思えば急に古泉が起きあがる。耳に触れていた手は自然と起きあがった肩に弾き飛ばされて、一瞬持ちあがった。痛い。
「……あなたって人は!」
顔を真っ赤にして、まったくもって迫力のない顔で俺を睨みつけた古泉は、大きな音をたてて椅子から立ち上がる。どこ行くんだ、ハルヒが、と呟いたところで、便所です!と大きな声が返された。これまたどうでもいいが、お前が便所って言うとあれだな、ひどい違和感だな。もしかすると素のお前は結構荒いキャラなのか。
古泉が勢いよく立ちあがったせいで散らばった将棋の駒を拾う。つっても、机の上の、俺の手が届く範囲でだ。いちいち立ち上がって、床の分まで拾ってなんてやるものか。面倒臭い。
のろのろと片手に集めながら、あの色を思い出す。いつも誰かが俺に向ける、色。色情。そんなことない、古泉は、だって。ああきっとたぶんただの気のせい。
見なかったことにしたくて、俺は目をつむった。瞼の裏は、どこまでも暗い闇だった。