彼が、どことなく悩んでいるような、疲れているような表情をすることが、多くなったように思う。どこがと聞かれたら答えられないけれど。感覚的にとしか表現できないけれど。
もしかすると彼氏さんのことで何かあるのかな、とも思ったけれど、以前の「別れた」発言から、それ以外の恋愛ごとについて僕は何も聞けていない。聞けるはずがない。いや、正しくは、あの部室での電話を聞いてから。僕は彼に、無駄にプライベートなことで関わるのを、ひどく怖がるようになった。
怖がる、という表現は中途半端で似合わないかんじもする。けれど、他に表しようがない、見つからない。彼のプライベートに触れようとした瞬間、なぜか体がぎくりと緊張して、これ以上関わってはならない気になってくるのだ。
触れてしまってはならない。関わってはならない。これ以上彼の、SOS団の中では見せることのない、素の表情や素の態度に触れてしまうと、僕は、僕は。
僕は?
「古泉?」
唐突に問いかけられ、ビクリと体が震えた。あ、え、とうろたえながら、彼の姿を探す。探さずともすぐ隣にいたということに気づいたのは、探し始めてから一秒後のことだった。
そう言えば今は、登校中だった。彼曰くの地獄の坂、を上っている途中で、彼と偶然会ったのだ。まあ、偶然、と言えど所詮同じ学校に通う同級生なのだから、会っても不思議ではない。そんななかで、彼が昨日は妹さんとひと悶着あっただの、シャミセン氏に夕飯をかすめ取られただの、そういった話を聞いていて、意識が飛んだのだ。
俺の好きなやつだったんだ、それ、と彼が不機嫌に言うのを聞きながら、そうか彼はそれが好きなんだ、といちいち頭に覚え込ませている自分が恐ろしい。必要以上に彼のことを知りたがって、必要以上に彼の言われたことに反応して、必要以上に彼のことを考えてしまう。これは、世間一般には何と言うのだろう。
「なんかやたらぼうっとしてるが、調子でも悪いのか?」
「いえ、まさか。体調はいたって良好ですよ」
「体調は、ねえ……」
妙に含みのある言葉を吐いて、彼は眼を細めた。しまった、引っかかるような物言いをしてしまった。僕の言葉の端々の、普通の人では気にもかけないようなところに彼は気づいてしまうものだから、やりづらい。なんだか気まずくなって黙り込むと、彼がふいにブレザーのポケットに手を突っ込んだ。
「まあ、これから授業もあることだし、あんま無理はすんなよ」
「はあ、それは、どうも……?」
「なんで疑問形なんだよ。ほれ」
笑いながら、僕に手を差し伸べてくる。わけがわからないままこちらも手のひらを差し出すと、その手のひらの中央に、ぽつんと小さな飴玉が置かれた。シンプルな絵柄の包み紙は、ポピュラーな会社ののど飴だ。
「やるよ。つっても、もらいもんだけど」
「なんですか、それ……」
俺はいらなかったから、と言う言葉とともに、彼は僕より一歩先へと飛び出した。それから、ひらひらと手を振って去っていく。
僕はと言えば、その場から動けずにいた。彼から受け取ったのど飴を見下ろして、意味のないことを考えてしまう。誰からもらったもの?家族から?友達から?女の子から?それとも、
男、から?
「…………っ」
ぞわり、と腰から首あたりにかけてを、気色の悪い何かが走って行った。正直に、キモチワルイと思った。気持ち悪い。彼が何を思ってこの飴を僕にくれたのか。それは、彼なりに、僕を気遣ってくれたからだ。それはわかる。けれどこの飴を、誰が何を思って彼にあげたのか、それは僕にはわからない。なんでのど飴?彼の喉を気遣って?風邪気味のようにも思えない。声がかすれるような何かをさせたからでは?
意味のない邪推ばかりをしてしまう。
「……僕は、何を」
口元には笑みになりきれない何かが浮かんだ。
くしゃり、と音がしたので、手元を覗き込む。手のひらの中にはもう飴はなくて、視線をさらに下ろせば、靴の下でその飴がつぶされていた。
「女子だけで買い物に行くから、今日はもういいわ。あと、ゴメンだけど明日の市内探索は休みね。家族で出かけなきゃいけないの。そのぶん来週張り切るわよ!じゃ、解散っ!」
高らかな声が解散を告げ、苦笑を浮かべた僕と彼は押し出されるように部室から出る。部室に入ってからまだ十分も経っていないのではないだろうか、空き時間ができればそれだけ休むことができるのだけれど、なぜか釈然としない。
それでも久々の早い帰宅に、わずかながらも疲れていた体が喜んだ。一緒に帰りましょう、と彼に言えば、彼はくたびれた顔をしながらもうなずいてくれる。
「毎度ながら、あいつの奔放さには振り回されてばっかだな」
「まあ、いいではないですか。久々の休みですし、ゆっくりされてはいかがですか?」
「あー……、うん」
なぜか考えるような口ぶりに、おや、と思う。何か予定でも入っているのだろうか。聞こうと口を開きかけて、やっぱり閉じた。あの恐怖じみたものがよみがえってきたからだ。
そうですか、となるべく平静を装って相槌をうち、視線をそらす。彼はそれ以上何も言わなかったし、僕も何も聞かなかった。そう、これくらいでいいのだ。このくらいの距離感が、一番落ち着く。
「お前こそ、しっかり休めばいいじゃないか。ナントカ空間が出ん限り、ゆっくりできるだろ」
「……ええ、そうですね。そのつもりです」
基本的に彼女が家族と出かけるとき、閉鎖空間が出る確率は低い。家族に対して不平不満を内にため込む、ということがあまりないのだろう。それを思うと幾分か気分が楽だが、心臓あたりに感じる重みは一向に軽くなってくれなかった。
歩きながら何度も携帯を確認する彼の横顔を静かに見つめる。感情の見受けられない、平凡なつくりの横顔。唇が少しだけ荒れている、目の下には隈のようなものが薄ら見えた。
対抗するわけではないが、僕も機関から連絡が来ていないか一応確認する。いや、本当は何もきていないことを知っているけれど。やはり何の連絡もなく、まじまじと見る必要もなかったので、すぐに携帯をポケットにしまった。
「俺も、土日は家族がいないから、久々にゆっくりできる」
たいした意図はないと知っていても、家に誰もいないなんてことを教えられると心臓が跳ねてしまう。他意はない。他意はないんだ、と自分に言い聞かせながら、なるべくいつも通りの笑顔を浮かべた。
「おや。ご旅行ですか?」
「別々にだけどな。親は町内会の集まりで、妹は友達んとこに行くらしい」
へえ、それはそれは。
でしたらどうぞゆっくり羽を伸ばしてください、と言いかけて、その言い方も変か?と思いなおす。どんな言葉をかけたらいいのか分からず言葉を探していると、彼が小さく欠伸をした。眠いのだろう、猫のように大きく口をあけて、ふぁんと閉じる。やっぱり猫みたいだ。
僕にそんなことを思われているなどとはついぞ思わない彼は、もう一度携帯を確認する。ぱちん、と開いてぱちん、と閉じて。何かを待っているように。何の着信もなかったらしい、携帯をポケットにしまって、僕に向き直ってきた。
と、同時に、携帯のバイブ音が近くから響く。僕ではない。では、
「…………」
彼の、しかないだろう。
電話ではないらしい、携帯を開くなりじっと画面を見たまま固まっている彼を見て、声をかけようと思い口を開いた。それとほぼ同じタイミングで彼がこちらを見て、申し訳なさそうに眉を下げる。
「すまん、ちょっと用事が出来たから、先に帰るな」
「え……」
唖然とする僕を放置して、いつもより早い口調で続けた。
「えーっと、また来週、か?じゃあな」
言うなり、僕の言葉も待たずに軽く走り始める。再び頭の中によみがえってくるあの恐怖感。
誰からの連絡?家族からではない、もし家族からであれば、僕が納得できるよう彼はいつもそれを教えてくれる。でも何も言わない。ならば、僕が不愉快になるであろう相手しかないはずだ。
それから導き出される結論。複雑に考えることなど何もない。
あたらしい、おとこ。
「待っ……!」
気付けば一歩踏み出して、彼の腕を掴んでいた。まさか呼びとめられる、それを飛び越えて手を掴まれるなどと思っていなかったのだろう、振り返った彼の目がいつもより大きく見開かれている。
携帯の画面がちらりと視界に入った。おあいにくと文章までは読めなかったが、決して家族に向けるようなものではなかったと思う。
「……どうした、古泉」
驚きが徐々におさまってきたらしい、通常使用にほど近い声音でそう問いかけられ、思わず言おうとしていたことが飛んだ。嘘だ、最初から言うことなんてほとんど考えていなかった。
ただ、彼がこれから新しくできた彼氏、あるいは今からそうなるであろう相手に会いに行くというのはだめだという予感がしていて、何がダメなのか自分でもはっきりと言えないくせにひきとめてしまったというわけだ。
そのぐるぐるとした思考のまま、とにかく彼に何か言わねばなるまいと勝手に口が動いて、愚直な問いを発してしまった。
「誰に、会いに行くんですか」
「…………」
不思議そうに、不可解そうに丸められる瞳。
真正面からその視線を受け、思わず俯いた。あなたが誰に会いに行こうとあなたの勝手だろうけれど、聞くことくらいは許してほしい。
既に自分でも良く解っていない思考に、彼から何か言ってほしかった。怒りでもいい、疑問でもいい。とにかく、何かを。
「それ……」
お前に言わなきゃいけないことか、と彼が呟く。ごくごく小さな声で。
そんなことを聞かれるのは迷惑だとか、鬱陶しいとか、そういう声音ではなかった。ただ、心底理解できないという響きがそこにはあった。
何も言えず黙りこくってしまった僕を静かに見上げながら、彼が困ったように指先を動かす。あるいは、ただの反射で。ぴくぴくと震える指先はまるくつややかで、不思議ときれいだと思えた。
「……会いに行くよ。男に」
「…………」
「お前が何考えてるかはわからんが、なるべく迷惑はかけないつもりだ。安心しろよ」
そういうことが、言いたいわけでは。はっと顔を上げた瞬間、ゆるい抵抗を指先に感じながら彼の手が離れて行く。もともとそんなに強く握っていなかったためか、するりと風のように手は抜けた。もはや追いかける言葉も、行動も思いつかず立ち尽くす僕。走る彼。遠ざかる背中は細く、僕はまた、その背中に手を伸ばしかけた。
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