ひさしぶりに土産を持って任務から帰って来た男は、そのひょろりとした体躯を俺と太陽の間に挟んだ。途端に遮断された光が少しだけ寂しい気もしたが、その分涼しさも体の表面を撫でたのでまあいいか、と思う。
男は右手に下げた袋を、自分より一回り(以上かもしれない)小さい俺の手にしっかり持たせると、当たり前のように廊下に座る。しわしわとわけのわからない虫の鳴き声にかぶさるように男は俺の名前を呼んだ。
俺は男の正面に座る。ぼんやりと袋を見ていたらどうやら中身は菓子らしく勧められた。断る理由も無いので袋から取り出す。薄い包みに包まれたそれはどうやら黒糖でできた焼き菓子だったらしく、ふんわりと――どこかねっとりとするような甘い香りが広がった。
甘すぎると途端に気分の悪くなる体質なので、至極慎重にそれを口にする。見た目と香りに反して口当たりは控えめで、俺はどんどんそれを口に運んでいった。男はそんな俺の様子を見ながら微笑ましそうに笑っている。
みいんみいんみいん、と蝉の鳴き声がした。俺はそれに驚いて目を見開く。今は夏だっただろうか?昨日、寒い日が続くから火鉢を出すべきか、と部下と話をしていたはずなのに。
男は首を傾けて、俺の目を覗き込んできた。は、と息を呑んでなんでもない、と首を振る。男は納得したように口を引き結んで焼き菓子を一つ手に取った。包み紙を剥がしながら、暑い、と呟くその姿に、やはり今は夏なんだと思う。
男は口を開いた。俺に元気だったかと問いかけた。俺はぶっきらぼうに、元気だったと返した。男はそう、と呟いて微笑んだ。安心した。そう言った。
数分ほど黙々菓子を食べていたら、ふいに緑茶が恋しくなった。茶を注いでくる、と言って立ち上がり、男を見る。男はぷらぷらと廊下から足を投げ出して、どうやら寝転んでいるようだった。行儀の悪さは育ちの悪さに比例する、と誰かが言っていたか。しかしそれは間違いだと俺は思う。ただ単にこの男の性格だ。
いってらっしゃい、という声がかけられ、無意識のうちに部屋に入った。みいんみいんみいん。忙しそうに、切なそうに鳴き続ける蝉はいつになったら死ぬのだろう。1週間の命だとして、自分たちはそれを知っているからああも喧しく鳴くのだろうか。
確か部下が筒に茶を入れて冷やしていたか。それをいただこう、と足を向ける。氷の中に無造作に突っ込んである筒の中にはまだたっぷりと茶が残っていた。茶を注ぎながら、ふと廊下を見る。開けっ放しの戸の向こうに、気だるい様子で寝転ぶ男の姿が見える。
なぜかそれが安心した。ほ、と小さく息をついて盆の上に茶を入れた器を乗せる。体格と茶の重さで少しふらついた。男が見ていたのか、危なっかしい、と呟いたのが聞こえた。
廊下に俺も座り込み、外をぼうっと眺める。菓子は半分ほど減っていた。量はまだある。明日も食べよう、と思いながら茶を飲み込む。筒ごと持ってくればよかった、と思いながら男を見た。男も茶を飲みながら一仕事終えたように笑っている。

「なあ」

俺は呟いて、男はそれを聞いて振り返る。本当にこちらを見ているのかさえ危ういその表情に、どうしてかイラついた。みいんみいんみいん。精一杯の鳴き声もどこか鬱陶しくて、少し乱暴に茶を飲み干す。
男はなに、と呟いた。そういわれてはじめて気づいた。俺は何を言うつもりだったのだろう。言うべき言葉が見つからず、手をうろつかせた後なんでもない、と呟く。ふうん、と男は言って愉快そうに笑った。あれ、俺って何が言いたかったんだっけ?疲れているんだろうか。甘いものは疲れに効く、と思いながら菓子を口に放り込んだ。乱雑に咀嚼しながら男を再び見る。
男は俺の顔を見て、笑いながら呟いた。つかれた。その言葉の奥に何か、違うものが引っかかっているような気がして俺は焦った。どうして、と聞こうとして、聞いてどうすればいいのか迷ってしまい、結局聞くのはやめた。
男は笑っている。
俺は不意に心臓がひやりと冷えていく感覚に襲われた。怖い、とどうしてか思った。男は、それじゃあ戻る、と言いながら立ち上がる。『何も持たずに』。生きていた証拠すら残さないように、すう、と音も立てずに。かたかた手先が少しだけ、震えた。




「いちまる」



















「………あ、隊長。起きました?菓子買って来たから食べましょう。お茶も入れましたし」

「松本、」

ぱかりと開いた視界の先には金色一色だった。鮮やかな色と鮮やかな笑顔。松本は湯気をたてる茶を俺の前に置く。机の上に置かれた菓子は焼き菓子ではなく、季節に似つかわしくない水菓子だった。
季節はずれのものほど安い、と松本は言いながら小皿の上に切り分けていく。花柄の水菓子と芋羊羹が乗せられた小皿がまた、俺の前に置かれる。

「食べましょう。あ、隊長。寝るときには毛布くらいかけてくださいね、今の季節は特に。寒いんですから」

俺の体の上には毛布がかけられていた。松本がかけたのだろう、ピンクに黒の水玉。派手な色だが彼女らしい。俺は苦笑してそれを折りたたんだ。暦を横目で見れば、当たり前に冬。そうだ、当たり前だ。当たり前。
あの妙に生々しい夢は、と思いながら、そして強烈に勧められて水菓子を口に含みながら考えれば、あれは夢でもなんでもなく事実だった。俺はあそこで呼び止めなかった。じゃあな、と言って手を振ったのだ。そうだ、それだけ。
ぴたりと羊羹を口に入れようとしていた松本が動きを止めて俺を見た。どうした?と俺は言って小皿を机上に置く。松本は急にうろたえ、けれどどこか冷静に俺の頬に手を伸ばした。

「失礼します。どうして泣いているんですか」

白い指先に涙がすくわれる。間に合わなかった左の目からは雫が零れた。袴の上に零れるそれを見て始めてそれが涙なのだと気づく。

「悲しかったんですか、怖かったんですか。それともなんでもないんですか」

俺は返事をしないかわりに首を振った。どう答えればいいのかすらわからなかった。けれど不思議に、悲しくも怖くも、だからといってなんでもないわけでもなかった。松本は袖で涙を拭き、再び小皿を手に取る。

「今は冬ですよ」

その言葉の真意がつかめなくて、俺は一瞬躊躇した。
けれど松本はいつもと同じように艶やかに笑っているのだから、言葉の意味もどうとってもいいのだろう。彼女は常にほんとうのこととやさしいことしか言わない。
外には何の音も聞こえなかった。何も鳴いていなかった。廊下は見えない、戸が引かれている。湯気が立ち込める部屋の中に氷水で冷やされた茶筒は無いし、あの焼き菓子なんてどこにもない。
男の背中すら見えない。




「………ああ」










そこでさよなら