「…………」

俺は恐らく悪い夢でも見ているのだと思う。
できればこんな悪夢――いや、ある種の人間にとっては最良の夢かもしれないが、俺にとっては悪夢にしかないわけで――目覚めることができるならば目覚めたい。しかし、俺は頭の中心でこれは悪夢だと主張する反面、隅っこでこれは現実だと小さく呟いていた。なぜならば、あまりにすべてがリアルすぎるからだ。すべてというのはいちいち説明するのが面倒なので割愛させてもらうが、とにかくすべてだ。
そうだな、一例を上げるとすれば、頬を引っ張ったときの痛みとか、だろうか。

まともな神経をしている人間ならばなんじゃこりゃああああ、な世界だっただろうが、あいにく俺はあらゆる非常識的な人間(その他)に囲まれ過ごしすぎたせいで、なんじゃこりゃああああとは思いながらもどこか冷静に考え始めていた。
これは絶対にあいつのせいだ。

「…………あー」

ためしに声を出してみたところ、昨日まで出ていたはずの声はどこで変換されてしまったのか、なよなよした声しか出てこない。「あー、あー」必死に低い声を出そうとがんばってみる。まあ、自分からしたら不自然だがそこまでおかしくもないだろう。
次に、自分の髪の毛だ。まさか伸びてなんかいやしないだろうか。片手を上げて髪の毛の付け根に触れてみる。昨日までの、剛毛とはいかないが男らしかった少し硬めの髪の毛は柔らかくさらさらとしたものに変貌していた。かろうじて長さだけは変わっていなかったが。

「あああ……」

触れたくはないが確かめないと先には進めないだろう。俺は髪の毛に触れていた手をそっと下ろす。顎、首、…、胸。

「……うわ」

やわらかかった。人並みか、それ以下か。巨乳とまではいかないが、小さすぎるわけでもなさそうだ。不運と思うべきか幸運と思うべきか。壁にかかっている制服は昨日とは何も変わらず、男子用のサイズを保持しているというのに。
俺の体はこんなにも変貌してしまったんだ。いや、自分に問いかけてみたところで答えは決まっている。一つだけしかない。

「ハルヒのせいだ」

げんなりして呟いた声がなよなよしすぎてさらにげんなりした。それにしても俺、何かするべきではないのか。対策やら何やら。助けを呼ぶとか何とか。

「そうだ、長門に電話だ」

思いついたら即行動、俺は枕元に放り投げていた携帯を引っつかんで電話帳を引っ張り出す。『長門 有希』のアドレスを選択したそのとき、ふいに人の気配を感じて急いで携帯を毛布の下に隠した。

「ん………」

低い、男の声だ。
ん、ちょっと待て。
俺はそこで初めて、自分の体以外のものに視線を向ける。数年過ごしてきた我が部屋は、見たこともない簡素なつくりの部屋へと変貌していた。

「っ………!?」

うっかり悲鳴を上げそうになる自分の口をなんとか押さえて、そろそろと手を下ろす。オーケー、落ち着け俺。まずはここで落ち着いて、これからの状況を確認しようぜ。
しかも今の声は誰の声だ。非常に聞き覚えがあったのだが、果たして誰の声だっただろうか?記憶の中を引っ張り出しながら体を動かすと、ベッドがきしりと音を立てる。なんだ、いやに揺れるな。
視線を下ろすと、どうやらベッドは二段ベッドのようだった。二段ベッドなんて小さい頃の学校行事の旅行先くらいでしか体験したことのない俺は、今更ながら非常に驚く。恐る恐るベッドの枠に手をかけ、下を覗き込んでみることにした。

「な……?」

小さい声を出してしまったのは仕方がないことだろう。二段ベッドの下段には、俺が見慣れて見慣れたくなかったと願った人間が珍しく無表情で眠っていたのだから(珍しくというのは普段こいつが笑ってばかりだという意味で、寝顔を見慣れているわけじゃない)。

(…こい、ずみ………!?)

本当にどういった状況なんだ、これは。なあ誰か教えてくれ、簡潔に。俺にわかりやすく。
とりあえずぼーっとしてる場合じゃないと、急いで長門にメールを打つ。ここで下手に電話なんかをしていたら、古泉がおきてしまう可能性もあるからだ。
「どうなっているんだ」という俺のめちゃくちゃな問いかけに、しかし長門は冷静に返答をしてくれた。

『メールでの問答は時間の無駄。恐らくその場にいるであろう古泉一樹に身体変化を悟られないように早急に学校へ来て』

「ああ」と短く返し、急いで制服に着替える。幸運なことに制服は枕元に畳まれて置いてあった。しかもそれが男子用のものだから笑ってしまう。それどころか、そこにはタオルまであった。何でタオル?

「あ、胸を隠すためか」

思わず呟いて、スウェットを脱いだ上半身にタオルを巻きつける。ああ男だった俺の精神よ、お前はどこに行ってしまったんだ。間近で見ることなんて無かったであろうその胸を見ても、ときめきもしないなんて。
自分の胸に興奮するような精神ではないということに安堵しながらも、女の胸に興奮しない精神に絶望する。
そろそろと音がしないように階段を下り、机の横にたてかけてあった鞄を持って一度止まり、古泉の姿を確認した。まだ眠っているようだ。すやすやと健やかな寝息を立てている顔を見ているとどこか苛立ちを覚えるが、起こしてしまっては意味が無い。
抜き足差し足忍び足でそろっと部屋から出て行こうとしたのだが、いざドアを開けた瞬間「…もう行かれるんですか?」と寝ぼけ半分の舌が回っていない問いかけが向けられ、力の限りドアに頭をぶつけてしまった。

「……………」

「……どうしたんですか?」

どうしようどうしようどうしよう俺。とっさにのどをぎゅっと指先で撫でてから、乾いた咳を吐き出す。

「お………、おう……先に行く…」

無理やりひねり出してみた声はなんとか違和感の無い程度の低い声だった。
古泉が寝返ったのか、さらりと衣擦れの音がして、それから「そうですか…」ともう半分夢に片足突っ込んだような声が返ってきたので、もういいかと判断してドアを閉める。
どくどく脈打つ心臓を押さえようとして深呼吸をした。意味は無かった。