「…抵抗しないの?」
短い声に頷くでもなく否定するでもなく、無表情を返す。
当たり前のように喉元を覆う大きな掌を半ば呆れた目で見た。
いつだってこの男は突然で、単純で、無邪気だ。今もまるで5歳児が、蟻の行列を踏み潰すかの如く無邪気な瞳をしている。俺の命は蟻数十匹と同等か。息を吐く。
伸びた前髪が目の中に入り込み、鬱陶しかった。まだ力の篭らない掌がしっとりと汗ばんでいる。緊張しているのではなく、長時間人肌に触れているから反射で湿ったのだろう。ひたひたと喉に触れる皮膚がさらに鬱陶しい。
「でも、残念だな。僕は君の事をあんまり嫌いじゃなかったんだけど」
「俺も嫌いじゃなかったがな」
「過去形なのかい?」
それには間髪いれず肯定を。
こういうときだけは幼さを利用してもいいのだと思う。特有の、すぐころころと感情を変えるということ。以前の完璧すぎた笑顔を以前の自分は嫌いではなかった。
けれど、今は嫌いだ。嫌い以外の何者でもない。この感情の移り変わりに罪は無い。
「僕は、今も嫌いじゃないよ?」
「あ、そう」
興味が無かった。だから聞き流した。それが気に食わなかったのか、尖った唇が視界に映る。いい年して、とどこか暢気に考えていた。
まあおしゃべりはここまでにして、とそろそろ力の篭ってきた掌の感触に一瞬眉を寄せる。爪先がひんやりと冷たく、喉に食い込んだ。
「そうだ、日番谷くん」
「…なんだ」
もう今更抵抗しようが泣き喚こうが色仕掛けでもしようが、この力が抜かれることは無いのだろう。無駄な行動を起こすのは疲れた。冷めた視線を返せばそこには、またあの完璧すぎる笑顔。
どうせなら無駄な話をするわけでなく一瞬で殺して欲しかった。そう、願わせることも相手の目論見どおりなのだろう。
きりきりと痛む呼吸器官が、只管呼吸を欲している。
「最後に何か言い残したことはあるかな、例えば雛森くん」
にっこり、そう言い、そいつは笑う。
腹が立ったから力を振り絞って腕を伸ばし、やわらかな瞼を爪で引っかいた。「あ、痛い」たいして痛くもなさそうな声に短い舌打ちをする。
何も無かった。こんな時に浮かぶ言葉など何も無かった。一線の走った瞼から、とろりと薄い色合いの血液が流れる。薄いな、と思った。思った以上に。ただ流れる量が少なく、皮膚に透けただけだったのかもしれない。それを差し置いても、特に白く。薄く。
「もう特に無いね、じゃあ死のうか」
これから晩御飯でも食べようか――そう言わんばかりに穏やかな声音で言い放った直後、ぐ、と今まで以上に力が篭る。
呼吸が詰まって一瞬息を吐いた。そして吸おうとして、吸えなくて、短い咳をまた吐いた。酸素濃度がするすると減少していく。
純粋に、あさましい、と思った。減り続ける酸素を求めて足掻く。あんなにどうでもいいと切り離したはずなのに、未練が、後悔が、躊躇が、恐怖が。ぞわぞわと体の表皮を撫でていく。
気付けば薄く笑って、喉を覆う手に触れていた。
「どうかしたのかい」
穏やかな笑顔を真正面からとらえる。ぐにゃぐにゃと視界が曲がるのはもう限界の表れか。
気が、変わった。最後に一言残してやろう。そして二度と忘れられないように、禍根を。一生心の中に濁り続ける言葉を残してやろう。そして苦しめばいい。苦しむ言葉でないにしても、残り続ければいい。そうして時々思い出せばいい。思考をかき乱せばいい。
「藍染、 」
最後の視界に映ったのはきれいな綺麗な薄い色合い。
(きみしかみえないんだ)
(そう、それで終わりだ。アイリス。)
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