「古泉――、一樹くん?あなた、自分のおなまえ、わかる?こいずみ、いつきくん?いつきくん?」
看護師の少し後ろで事の成り行きを見守っている俺たちは、そんなばかみたいに繰り返される問答を、右から左へ受け流すような適当さ加減で聞いていた。問答と言っても一方的に看護師が問いかけているだけで、古泉本人は当惑顔をして俺や看護師、窓の外を見たりと忙しい。
「おなまえ、わかる?大丈夫よ、ここは大丈夫。安心して、ね?」
優しげな声で必死になにやら口にしている看護師には悪いが、何一つ安心できるはずがない。ずっと古泉の座るベッドのパイプ部分を見つめていた俺は、ふいに視線を上げた。助けを求めるような古泉の目とばちりと合ったが、俺は何も言わずに逸らした。古泉はやはり当惑顔のまま、困ったように看護師を見つめ返す。こんなときに何かを言いそうなハルヒは先ほどから黙ったまま。
喋れないのかしら、と呟いた看護師は、ちょっと待っててねと古泉に一言声をかけると、病室を出て行った。どうか刺激は与えないようにと念押された俺たちは、一様に黙ってリノリウムの床を見下ろす。
古泉が躊躇うようなそぶりを見せているのが視界の端に映ったが、それだけだった。あいつは話しかけても来ないし、俺たちも話しかけようとは思わない。ハルヒだけはぷるぷると震えて今にも爆発を起こしそうにも見えたが、なんだかんだで看護師の言葉に忠実に従っているようだった。あいつにも、自分にどうにかできる管轄内には無いと判断したのだろう。それが、無意識的であれ意識的であれ。
「ああ、こちらです、先生」
先ほどの看護師が戻ってきて、俺たちを横目で見た後古泉のもとへ駆けていった。次いで白衣を着込んだ五十代ほどの男性が病室に入ってきて、俺たちの横を(物理的に)重たい足取りで通り過ぎていく。
邪魔にならないようにと部屋の隅に逃げた俺たちは、また古泉へと視線を戻した。俺だけは、正しくは古泉の座るベッドのパイプ部分へと。やわらかな髪の毛には包帯が幾重も巻きつけられていて、痛々しいことこの上ないが、それはそれで何かの属性を惹きつける感じがしてまたそれがいやだ。
――いったいなぜこんなことに。
それは説明するに十秒とかからない、至極簡単なものである。
俺の携帯に連絡をかけてきた女性が言うには、古泉一樹の記憶が消失しました、閉鎖空間内での頭部外傷によるものと思われます、だそうだが、本当にそうなのかはわからない。古泉の身内でもない俺たちには詳しい話を聞かせてもらえることなどなく、また、こちらも特別無理をしてまで聞こうとは思わなかった。
閉鎖空間の中で神人に吹っ飛ばされてビルに激突、頭を打って記憶障害。健忘の理由としては実にシンプルでありがちだが、ありがちな分、それがよりリアルで、ああ本当にこいつは、と自覚せざるを得ない。もっと不可解な、例えばハルヒのデタラメパワーでこうなってしまったんだとかならまだしも、これじゃあ俺たちにはどうしようもないじゃないか。
もしかすると心因性なものかもしれない。そのどちらもか?疲れた、と弱音をこぼすことだって珍しくは無かった古泉の、あの悲痛そうな表情を思い浮かべる。別に俺は今更、先生に古泉が記憶をなくした理由は心因性によるものですと言われても驚かないだろうと、なんとなく思った。
これが逆向性健忘であるか全生活史健忘であるか、医者でもない俺には解らないが、そのどちらであっても古泉が記憶をなくした、という事実に変わりはない。ハルヒあたりならショックを与えれば治るわよと意気込みそうだが、そうなるまでには少し時間がかかるだろうなと思う。
「古泉一樹くん。こいずみいつきくん。喋れるかい?」
「…………」
「喋られないのなら、頷きでいい。首を振るでもいい。紙に書くのでも構わない。さあ、教えてくれないかな?」
「…………」
喋れない、わけではないだろう。なんせ病院に運ばれてくる前、俺に連絡を入れてきた女性と古泉は会話を交わしているのだ。だからこそ「古泉一樹の記憶が消失しました」と彼女は断言したのだろうし。
病院側はもしや何も知らないのか?じゃあもしかして、ハルヒたちも何も知らないんじゃないだろうか。あの女性から電話が入ったその直後ハルヒから連絡がきて、古泉くんが病院に運ばれたから、と言われたのだ。ただし、見舞いに行くために学校を休むことは許されなかったから、俺たちはきちんと一日の学業を全うしてから病院に向かった。時刻は夕方四時過ぎ。そのときもハルヒは無言を貫き通していたな、と思い出す。ああやっぱり、たぶん、ハルヒは何も知らない。古泉が記憶を失ったことも。
どんな表情になっているのだろうと思ったが、顔を覗きこむことはできなかった。頭一つぶんほど低い位置まで俯いて、床を睨みつけているようにも見える。ひくりと朝比奈さんがしゃくりあげた。こんなときまであなたは、優しい。長門は最初から知っていただろうから、何も変わらない表情で古泉を見ている。
「喋れるかい?」
「…………はい」
久方ぶりに聞いた(と言っても前回声を聞いたのは昨日の朝方、登校中で挨拶をしたときだ)その声に、俺はようやくベッドのパイプ部分から顔を上げることができた。やつれたようにも見える古泉は、困惑顔のまま医師を見つめ返す。
看護師の命により、俺たちは無言のまま病院から退室と相成った。中では古泉が質問攻めにあっているのだろう。頑張れよと無責任なことを思いながら首の後ろを掻く。無言を貫き通していたハルヒがふいに、帰るわ、と呟いた。
誰も彼もが黙ったまま、そんな現状に文句も言わないまま、ハルヒはずんずんと足音を立てて廊下を歩いていく。もう夜も遅い。気をつけて帰れよ、と唇だけで言ったが、勿論聞こえているはずはないだろう。
「……面会時間が終わる。我々も帰宅すべき」
ぽつりと呟かれた長門の言葉に、俺は素直に従う。二人ともお気をつけて、先に失礼します、とえらく淡々と言い放ったが、どちらも何も言わなかった。古泉が無事に起き上がって、言葉が喋れているというだけで、もやもやとした確定不可能な気持ちは霧散したし、俺の不安も解消された。
ここ最近の懸念事項であった古泉との関係が、これによってリセットされたのだ。いいじゃないか。何を悲しむことがある。古泉は生きていた、記憶をなくした代わりに。十分じゃないか。寧ろ、ズルズルと不毛に続けてきた関係がなくなって、俺としても記憶をなくしてしまった古泉としても万々歳だ。なあそうだろう。古泉。
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