わたしの頭が真白になった。それからどうして、と彼に問いかける。何度教えても自分の名前を覚えなかったあの子が。どうして、見知らぬ男の名前を覚えている?唖然として手から力の抜けた私の横に、男が立つ。「おいで、アレン」そっと、まるで壊れ物を扱うかのように静かに手を伸ばした男に彼は手を伸ばした。それからひょいと抱え上げられ、わたしの視線に気付いていないとでもいうようにさっさとドアを開けて出て行く。肩に乗せられた彼は楽しそうに笑っていた。「***」男が背中を向けたまま呟く。
「アレンがこうなったのは全部おまえのせいだかんな、」
彼が消えた部屋はあまりに静かで純白で恐ろしくて冷たかった。私はぼうっと彼の寝ていたベッドに倒れこみ、短い髪の毛を枕に押し付ける。かすかだけれど彼の匂い。確かにここにいたのだと証明するかのごとく香るやわらかな匂い。私は声をあげて泣いた。ぼろぼろシーツが涙で汚れるほどに。『おまえのせいだかんな、』わけのわからない男の声に涙腺が持っていかれたかのように涙が零れ続ける。知らない、私が何したっていうのよ。彼を帰してよ。ぼろぼろ、泣き続けてようやく目が覚めたころには日が暮れていた。夢を見たのだ、わたしは。夢の中で、私は去っていく彼の背中に思い切りガラスでできた白鳥をぶつけた。それだけの、夢だった。
(夢だった)
「リナリーはまだ見つかってないのかい?」彼女の兄が呟いた。俺は首をぶんぶん振ってテーブルの上の珈琲を手にする。熱いカップに少しだけ息を吹きかけて口をつけて呑み込み、静かに置いた。「うーん。もっかいあの家行ってみたけどもぬけのから。家具はそのまんまだったけど、さ。」返して、膝の上に頭を乗せてすうすう眠る子供を見た。あまりの何も知らない純白さに痛みさえ覚える。「なぁ、アレンは治る?」今度はこちらが問いかけた。すると彼女の兄は「治るよ。最近の医療技術はすごいからね、記憶はわからないけど言語能力や知力、生活に支障のない程度にはきっと」言い切るのか言い切らないのかどっちつかずの返事をして俺と同じく珈琲を口にした。俺は子供を見下ろしてそっと頭を撫でる。白鳥が打ち付けられた頭は血みどろで見るに耐えられないものだったけれど、今ではその名残も見せない真白さ。彼女の兄が俺を見て、それから躊躇うように呟いた。「…きみは、リナリーを恨むかい」まるで懺悔にも似ている。俺はかすかに首を振り、彼女の兄より小さな声量で呟いた。「怒ってないよ、俺は」彼女の兄の遠まわしな問いかけを端的に返して、
「あいつもかわいそうなひとりなんさ」
白い病棟の一番上で俺は外を眺めていた。彼女はまだ見つからない。どこへ逃げたのか、それとも。ただ純粋に子供を捜しているのだろうか。自分のした罪さえ、知らないままで。
(彼女は子供が好きだった)
だから去っていく背中を許せなかったのだと、思う。ガラスでできた白鳥は見事子供の脳天を直撃し、粉々に割れた。子供も相当な石頭だったのだろう、割れた、なんて。俺は柵に凭れかかり、短いため息を吐いた。俺にも罪が無いとは一概に言えないのだ。彼女から子供を奪ったのは俺、彼女を突き放したのは俺、子供が選んだのは俺、結局彼女はひとりぼっち。けど皆、探してるんだよ、彼女を。おまえはひとりぼっちじゃないんだよって、思い知ってほしい。(だからどうか、)
「かえってこいよ、リナリー」
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