物音がして振り返れば、そこには長身の銀狐がひっそりと佇んでいた。
その風体に一瞬肩を震え上がらせる。「…何してんのよ、ギン」怪しい空気は感じられなかったが、空虚な雰囲気がやんわりと乱菊の肌を刺した。
市丸はそっと忍び寄り、まるで乱菊の問いかけなど聞こえていないかのように歩を進める。
それから、動かない乱菊の体を正面から抱きしめた。大きな胸が邪魔だったのか、くるりと彼女の体を反転させる。
「ギン?」
彼の行動が恋人間の恋情だとかそういうものに関したものではないと理解していたから、何も驚くことは無かった。第一彼が愛しているものはほかにいて。そして乱菊自身も、彼と同じものを愛していた。
市丸は何も言わず、口先だけで笑う。昔の、幼い頃の二人のような関係は今も続いているのか続いていないのか曖昧で。
「…隊長と、何かあったの?」
昔のような、世界が二人で構成されているなんてことはもう無いのだから。
彼と彼女の間に挟まる一人の子供のことを口にすれば、市丸は過剰なほど反応した。
「何、またあしらわれた?」
甘える癖があった覚えは無いのだが。
このままじっとしておくわけにもいかないので、机の上に置いてあった副隊長専用の書類に目を通し始める。市丸の、置いてけぼりでつまらないといった息が喉元に触れて眉を寄せた。
「あのね、用事があるんなら早めによろしく。こう見えて私も結構忙しいから」
「ボクと同じのサボタージュ組のくせに〜」
「今は脱退中」
移動すれば引きずられるように市丸もついてくる。しつこいなぁ、と口にすれば完璧に拗ねた市丸の手が乱菊の首元にしがみついた。
息がし辛いのよ、と低い声で牽制し手を離す。
「ギン?」
「…………」
体を離した市丸は、乱菊の部屋だからといって一切の遠慮もせず、その場に座り込む。
呆れた表情を浮かべたまま、書類を手放して首を傾けた。恐らく相談事があるのだろう、こんな強行にまで出るなんて。市丸と同じ目線まで体を落とすと、彼はようやくぱっと明るい笑顔を浮かべる。
「なぁ、乱菊」
「なに?」
瞬間、市丸はそっと寂しい笑顔を浮かべた。え?と目を丸めた乱菊に、許せないとも言えるべき言葉を彼は吐く。
「ボク、日番谷はんあきらめたほうがええんやろか」
「…ッ………!?」
半ば反射的に片手を振り上げて、頬を張り飛ばしていた。お互い咄嗟のことだったので市丸はおろか乱菊すら自分が何をしたのかわからなくて。ただただ目を丸めて、じっと自分の手を見つめる。
それから、思い出したかのように目を吊り上げて市丸をにらみつけた。
「…アンタ、何言ってんのかわかってんの」
市丸が愛してやまないもの。そして、乱菊も愛してやまないもの。
決死の思いで我が隊長への愛を恋情から家族愛に切り替えたというのに、昔馴染みに譲渡したというのに。
沈んだ様子の市丸に、心配よりもやはり怒りが上回ってしまう。ふるふると震える手先を片手で押さえた後、落ち着くべく息を吐いた。
「…馬鹿ね」
赤く色づいた頬を指先で撫でて、小さくごめん、と呟く。何があったのよ、と続けると、市丸はいつもの不思議な笑顔でなく、へにゃりと沈んだ笑みを浮かべた。
「嫌いやて、言われた」
「……?」
「ボクのこと嫌い?て聞いたら、嫌いやて。…なんか、一気に落ち込んでなァ」
今度こそ乱菊は呆れた。書類を手にして、筒状に丸める。それからぱこんと彼の頭を叩くと、元に戻して机の上に置いた。
阿呆なことで落ち込むものだ、この男も。
「…その時、隊長の顔、見た?」
「へ?」
立ち上がり、棚を探りつつ茶筒を手にする。ラベルを確認して、湯飲みを3つ取り出した。不思議そうに首を傾ける市丸をよそに、阿呆ねぇ、と呟く。
湯を沸かす必要がある。そう、『彼』が来る前に。
「あの人ね、本心じゃないこと言う時には、あんまり人の顔見ないのよ」
――隊長の顔、見た?
市丸が思い出すは小さな背中。うつむいて、嫌いだ、と言った彼。顔は、見えなかった。
次第に浮上してくる気分とともに、乱菊がからりと笑った。「それしきで凹んでるくらいの奴に、やっぱ隊長はあげらんないわねぇ」急須に茶葉をいれて適度に沸いたお湯を注ぐ。
「じゃあ、用意しましょうか。棚ん中からお茶菓子出して」
「?乱菊、何言うて…」
「多分、そろそろ来るわよ」
そう、きっと彼は。
本心ではない言葉を吐いた後、必ずどこかで様々な形で謝罪をするのだ。
もう数分もしないうちにきっとここへ来るだろう。市丸の所在を探して、探しつかれて、少し汗をかいた顔で。気まずそうな顔で。
3つ並んだ湯飲みを見て、乱菊はやわらかな笑みをこぼした。
お題提供:SBY
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