僕がその変事に出会ったのは、もう卒業も間近という十一月の終わりだった。
いつものようにマンションから出て、ゴミ出しに向かう。マンションを下りてすぐの回収所にはいつも猫が溜まっていて、僕はその猫たちからどうやって逃げるのかを考えていた。猫が嫌いなわけではないがその猫たちはたいへん飢えていて、みゃあみゃあと命を削っているような鳴き声を出すのだ。無情に放り出してしまえば楽なものの、そういうわけにもいかない。
そんなとき、僕の横からぬう、と伸びる誰かの腕があった。反射的に体を避ける。立っていたのは僕とそうたいして背の変わらない北高の生徒で、しかも毎日顔を合わせていると言えば合わせている、
「長門、さん。こんばんは」
「……こんばんは」
長門さんはブレザーの袖から伸びる白い手でゴミを押し込むと、何も言わず黙々と歩いていった。
長門有希さん。僕と同じクラス。身長は高め。クールで一見無情に見えるが意外に優しい。隠れファンが多い。あまり人と会話をしない。…僕が知っているのはそんなところだろうか。
けれど、もうひとつ、ある。僕が知っている秘密。学生鞄を片手にこれからコンビニにでも行くのだろう、僕が見る長門さんはいつだって制服姿で、私服というものを見たことが無い。
「長門っ!」
その背中に声がかけられた。死角で僕の姿は見えないのだろう、一目散に長門さんへと駆け寄り、その隣に立つ。その横顔は楽しそうで、見ていて清清しいようなはっきりとした笑顔。短めの髪の毛と、マフラーが翻る。
長門さんには、彼女がいた。
校内でその噂が出回っているかは知らないが、このマンションはなかなかの高級物件だし、うちの生徒がそうそう出入りしているわけではない。しかも長門さんときたら人とあまり喋らないものだから、近寄りがたいのも相まって誰も聞かないのだ。加えて学校ではあの彼女とは話をしていないようだし(というか彼女が何組なのかすら知らない、けど多分同じ学校なのだとは思う)、だから余計に「長門有希に彼女はいない」説が多く出回るらしい。
だけど、いるのだ。隣に立っているあの少女は。きっと彼女に違いない、家族であれば「長門」なんて言わないし、第一長門さんは一人っ子だ。長門さんは男ですらあまり友達を作らないのに女の友達を作るとはとうてい思えないし、つまり結果的にあのひとは彼女と言うことになる。
まあ僕が考えても仕方が無いことだし、と思いながら部屋に戻った。長門さんと僕は、所謂お隣さんというものである。僕と長門さんがマンション契約を結んだのがほぼ同時期で、しかも空いているところも少なく、半ば必然的に隣になった。まあ高級マンションだから隣の部屋の音が聞こえてくるわけではないし、僕も長門さんも騒ぎ立てるタイプではない。
部屋のソファに座ってぼんやりテレビを見ていたら、突然携帯が震えだした。
「もしもし」
電話だとすぐに理解して通話ボタンを押す。通話口からは、どんな表情を浮かべているのかわからない、いや、きっと笑っているのだろうけれど根底がつかめない、そんな声が流れてきた。
『私です。ちゃんと晩御飯は食べました?』
「森さんですか……」
森さんというのは、僕をこのマンションに住ませた僕の親戚である。僕の両親が海外に出たものだから、かわりに世話をしますと言って、半ば強制的にこの高級マンションに僕を住ませた。別に安アパートでも良かったのにと愚痴を洩らし、絶対零度の笑みで見られたときの恐怖はいまだに忘れられない。
聞くところによると、こんにち日本の治安は悪くなる一方で、安アパートなんて怖いからちゃんとしたところに住ませてやってくれと両親が頼み込んだ結果らしいのだ。学校に比較的近くて安全なところ、という二つのキーワードからここを選び出したらしい。
そういう森さんは私と二人で暮らすのは落ち着かないだろうから、と言って滅多にここには来ない。どこで暮らしているのかも知らない。ただ、僕が学校に出ている間にここに来て、食事を作ってタッパーに詰めて、僕の自室を除いて掃除をしていることだけはわかる。
『そう。私です。食べた?』
「えーと、まだです」
『………』
「すみません」
無言の圧力に耐え切れず謝罪すると、電話向こうの雰囲気がぼんやり和むのがわかった。ほっと胸を撫で下ろし、電話片手に冷蔵庫へと向かう。いつもどおり、タッパーに詰められた料理を取り出し、皿に移した。
『ちゃんと食べなさいね。また何かあったら言ってください。それじゃ』
「ええ、ありがとうございました」
電話はあっという間に切れた。
携帯をポケットに突っ込んで両手を開けて、皿に移した料理をレンジで温める。ついでに喉が渇いたから何か飲もうか、と冷蔵庫を探ったけれど残念なことにそこには何も無くて。
仕方が無いからコンビニにでも行こうかと財布を持って部屋を出る。びゅう、と強い風が吹いて、前髪がぱたぱたと揺れた。
そのときだ。ふいに、目の前を何かが横切っていった。風で流されたチラシか何かだろう。そしてそれを目で追っていたところ、僕の体はくるりと反転する。そして、目の前には、先ほど飛んだチラシなんかではなく、僕が閉めたはずの扉が。
ちゃんと閉め切れていなかったのだろう、隙間に強風が入り込んで大きく反動でこちらに向かって開いてくるドアが僕の体にぶつかってくるまで、僕はそんなぼうっとしたことを考えていた。そのままどごんと鈍い音がして僕の体が冷たい床に倒れるまでおおよそ1秒、加えて床はこれまた高級な石か何かを使っているという話だったのでそこに後頭部をぶつけた僕には気絶と言う道しか残されていなかった。暗転。
我ながら恥ずかしいとは思うが、ドアにぶつかってぶっ倒れた挙句気絶したなんてどこの漫画だといっそ笑える。
そっと瞼を押し上げると、そこに映ったのは僕が最後に見た黒い色をしたドアではなく、ついでに高い天井でもなく、普段良く見慣れた部屋の中の天井。
「あ、起きた」
耳に慣れない声が入ってきて、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。ごろりと頭を横に向けると、そこには見たことの無い少年が立っていた。手には白いマグカップ、スウェット姿といういたってありふれた部屋着だ。
起き上がった僕の後頭部に見事な鈍痛が襲い掛かってきたが、そんなことを気にしている場合ではない。「あの、ここはどこですか」出来る限りの笑顔を持って話しかけてみた。
少年――といっても僕と同い年くらいだ。少年はマグカップを僕に渡すと、自分の分をいれにいくのか背中を向けて、ながとのいえ、と呟いた。
「ながと?長門有希さんの部屋ですか?ここ」
「そうだ。お前が倒れてたから、連れてきた。お前の部屋、ドアにもう鍵がかかってたし」
そういえばオートロックだった。
「でも、あなたは誰です?長門さんは、どこに」
少年は僕を寝かせているソファから見える、所謂ダイニングキッチンのカウンターから顔を覗かせ、ポットに水を入れている。
「俺は長門の家の同居人。長門本人は、お前の頭を冷やすことができるような、氷枕とか買いに行ってる」
「どうきょ、にん……?」
なんだよおかしいか、と問いかけてくる彼に反射的に頭を横に振る。おかし、く、は、あるに決まってる。長門さんがルームシェア?考えられない。しかしよくよくあたりを見渡せば、見当たるのは彼のものと思しき鞄と制服。長門さんが先日持っていたハイペリオンの本と、全く興味のなさそうなライトノベル。
本当に同居人なんだ、と思って、そこで疑問が生じた。
「えっと、その、不躾な質問ですが、長門さんの彼女は…?」
「は?彼女?」
彼はお湯が沸く間ここで待っているつもりなのか、頭をがしがしと掻きながらこちらに歩いてきた。どっかりとソファのすぐ近くに腰を下ろして(僕がソファを占領しているせいだ)(しかも避けようと思ったら寝とけと怒られた)、テレビのチャンネルを変えている。
「ええ、彼女です。先ほど、二人でマンションを出て行くのを見たんですが…」
正確にはマンションから少し離れたゴミ回収所だけど。
すると彼は、びっくりしたようにこちらを見た。びっくりしたいのはこっちだ。それからばつがわるそうに「あー、」と気の抜けた声を出し、面倒臭そうに頭を掻き、お笑い番組にチャンネルを設定して、いたって平淡に答える。
「あー、そう、彼女な。帰った」
「…そうですか………」
普通、ルームシェアしている家に彼女を連れ込むだろうか。
ああでも、そんなものかな。長門さんだったらそんなことを気にはしなさそうだ。家に連れてくるのにもやましい気持ちを伴って、と言う感じではなさそうだし。
居心地悪そうに彼は首筋をかりかりと指で掻いた。やっぱり僕はすぐにでも帰ったほうがいいんじゃないだろうか。うん、そうだ。そんな、気絶していたなんてたった数分だろうし、お邪魔になってもいけない。
「あの、僕、帰りま、」
「え?」
手に持っていたマグカップが揺れた。
立ち上がろうとしたそのとき、いっそ見事とでもいうような鈍痛が後頭部を駆け抜けていく。立ち上がるな寝てろ!と彼が叫んだのもワンモーション遅かった。ぐらりとカップを持ったまま前のめりに倒れこむ。
「わっ……!」
ぎゃあ、と声を上げる彼に、カップの中に入っていた物体Xがばちゃりとかかった。
「あ………、ああああああ!」
カップの中に入っているものって、明らかなお湯じゃないか!
いや中身は牛乳だったようだけど、って、牛乳でもよくない!
「やけどを!」
悲鳴みたいに声を上げた僕とは正反対に、彼は至極冷静に僕に背を向けた。頭から真っ白の液体を伝わせて、グレーのスウェットの上半身をしっとり色濃くさせている。ほかほかとたち上る湯気を他人事のように、いや実際に他人事だけど、じいっと見ていた僕ははじかれたように彼の肩に手をかけた。
「触るな!」
上ずったような、少し高い、鋭い声で拒絶されて、どうしてだ相当熱かったに違いないのに、と思い込んで、ゆっくり立ち上がる。
彼の背中に手をかけてこちらを向かせたはいいけれど、やっぱり頭痛がして、「うわ」なんてまぬけな声を出しながら彼を押しつぶした。生温い液体が服に染み渡ってくるこの感覚。うわあああ。結果的に彼を押し倒しているような恰好になってしまって、なんてこった、男同士でこんな恰好、ごめんなさい、と思いながら顔を覗きこむ。
我が目を疑った。
「………あ、れ?」
「………」
僕の胸に当たる物体Xは何だ。
決して男が所持しているようなものではない。ふにゃりと僕の胸板に押しつぶされて形を変えているそれと、突然布が余った首元、丸みを帯びた輪郭に、やや大きめになった瞳、長くなった睫。
どこからどう見てもその姿は、
「お………、んな………?」
ていうか、さっき見た、長門さんの彼女。
あっけに取られている僕の背後で、がちゃり、とドアが開く音がした。それから、僕の下にいる彼女が軽く息を呑む音も。はじかれたように体を浮かせて、四つんばいになったような恰好で背後を振り返る。立っていた長身が僕たちに影を落とすのを、本当に他人事のように見ていた。
ビー玉を埋め込んだような、何の感動もない瞳で見つめられて、額を貫通して後頭部まで穴を開けられるような気持ちになる。
「長門………」
彼女が小さな声で呟いた。これってあれですか、俗に言う修羅場でしょうか。さっきまでいたあの同居人の男の人がどこにいったのか、そういうことを考えるよりも真っ先に僕の思考は僕の下にいる長門さんの彼女→僕が倒れた事実を長門さんは知らない→長門さんから見ると僕が彼女を押し倒しているように見える→というように流れ作業で最悪な方向へと物事を考えていって、結果的に修羅場という漢字三文字に落ち着いた。
「おかえり、長門」
「……ただいま」
和やかに挨拶し合ってないで!長門さん!視線が痛いです!
そんな僕たちをあざ笑うかのように、ポットがピイイ、と音を立てた。
20080325/ながとけ1/2
キョンの名前が一度も出てない件
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