――僕は噂で聞いたことがある。
長門さんはその細い体躯からは想像もできないような、武術を身につけているのだと。
非力で暴力など無縁のような美少年に見えても、その傍ら、冗談では済まされないような強い力を所持しているらしい。一学期の体育、選択授業で長門さんは人数過多のため、当初選んでいた陸上競技から空手に移されたそうだが、空手経験者の立派な体躯の男たちを伸していったのだとか。
ちなみに僕も多少は護身術を身につけてはいるが、長門さんに勝てるかどうかはわからない。噂が噂を呼び新たな噂を作り出し、勝手に築き上げられていっただけかもしれないけれど、暴走族撃退事件や有段者百人抜きなんてことを聞いてしまったら負ける気しかしないだろう。

「あの、長門さん、誤解ですこれは」

「………」

背中に冷や汗の滝が流れてるんじゃないだろうかと思えるほどの冷たさが僕を襲う。
長門さんは無言でテーブルの上にドラッグストアの袋を置くと、鞄の中からタオルを取り出した。
それからしゃがみこんで、僕に一言「退いて」と呟く。あああすみませんまだ僕彼女の上でしたね!即座に飛び退くと、長門さんは彼女をゆっくり抱き起こし、制服が牛乳で濡れるのも厭わず、濡れた彼女の顔をタオルでふき取った。

「大丈夫だ、長門。それより床が」

「床こそ大丈夫。あなたが心配。火傷は」

僕がさりげなく気にしていたことを長門さんが問いかける。

「そこまで熱いわけじゃねえよ、やけどはしてないと思う。でも牛乳くさ……」

「お風呂に」

「ああ。でもその前に床を」

その光景を黙ってみているだけの僕に、突然長門さんが振り返って視線をよこしてきた。てっきり人の彼女に何をと暴力を働かれるのかと思っていたが、そうではなく、あくまで冷静に淡々と、

「あなたは寝ていて」

と命令される。
確かにまだ頭はがんがんしていたけど。動けないでいると、さっさとしろ、とでも言いたげな視線を送られて急いでソファに舞い戻る。腕置きの部分に頭を乗せ、二人のやり取りを見ることにした。胸が牛乳臭いけど。
彼女は自分の顔を拭いたタオルで、床をてきぱきと拭く。その間に長門さんが簡易氷枕を袋から取り出し、封を切って僕の頭の後ろに置く。こぶになっていた、と言われて一瞬何のことだと考えた。僕の頭のことか。

「今後、変則的な頭痛が起こったら、病院に行って」

「はあ……」

「今、痛むところは」

「あ、りません」

「そう」

長門さんは僕を一瞥すると、とたんに興味が失せたような表情を浮かべ、彼女の元へと歩いていった。小さな背を支え立たせると、ぐしゃぐしゃの服にタオルを被せる。

「じゃあ俺、風呂に」

「わかった」

「こいつに、説明……したほうが、」

「いいと思う。任せて」

さっぱりわからない二人の会話を聞き流していると、任せた、と言って彼女がリビングから姿を消した。
それから長門さんが僕の正面、小さな個人用のソファに座り、そのビードロのような瞳を向けてくる。説明。説明。説明が必要な何かがあっただろうか。ああそういえば、彼はどこに行ったんだろう。
僕が現実逃避している間に、長門さんは立ち上がり、キッチンで何かをして戻ってきた。手に持っているのは湯のみだ。中にはみどりいろをした液体がなみなみと注がれていて、僕の手にそれが渡される。感情と言うものを一切感じさせない口調で、長門さんが呟いた。

「飲んで」

「あ、どうも……」

さっき牛乳を飲んだばかりで口の中が牛乳臭いから、正直助かる。なつかしい香りがして、恐る恐る湯飲みに口をつけた。同じく長門さんも湯飲みを手にとって口をつけ、お互い無言が続く。説明、するんじゃなかったっけ。
僕が飲むまで黙っているつもりかも、と察して、熱いけれど喉の奥に流し込んだ。特別猫舌、というわけではない。喉が焼けるような熱い温度が通り過ぎていった。文章どおり、喉もと過ぎれば熱さを忘れる。長門さんは僕が飲んだのを見計らうと、こつんと音を立ててテーブルに湯飲みを置く。

「説明する前に、あなたに言わなければならないことがある」

「……なんでしょう?」

「あなたが今回見たことをすべて忘れ、記憶から抹消するというのであれば、わたしはあなたに今後一切関わらないことを約束する」

「…?」

何を言っているんだろう。

「しかし説明を要求し、またこれ以上の過剰接触を求めるのであれば、わたしはあなたを最優先監視対象と認め、いかなるときも監視することを決める」

理解が追いつかない。
長門さんは自分のことをわたしと言うのだなあ、なんてのんきなことを考えながら、長門さんが言った言葉を頭の中で繰り返してみた。監視…、穏やかではない単語だ。しかし、さっきの異常事態をこの目で確認してしまった以上、記憶から抹消するということは確実に不可能だし、また知的好奇心が存外強い僕は、関わりを持とうと思ってしまうだろう。

「……あなたのいち判断で決めて。前者ならばすぐにここを出て、後者ならばここに残れば良い」

「………」

ここまで長門さんが饒舌なところは見たことが無い。よっぽど秘密にしていることなのだろう。やっぱり、知りたい。
監視する、ということは、秘密を漏らさないように見ておく、ということだろうか。同じクラスだし、そのくらいは簡単そうだけど。どんな手段を使うか想像ができないけれど、長門さんを敵に回したら怖い気がする。そもそも僕は、そんなに人のことを口にするようなタイプではないし。

「……説明を、要求します」

意を決して口を開くと、長門さんはこくりと、存外あっさり頷いた。

「了解した」

そう言って僕の目の前の湯のみを回収して、一度キッチンに引っ込み、おかわりをいれて戻ってくる。ほかほかと湯気を立てる湯飲みをまた口につけて、湯気ごしに見える長門さんを見返した。
どこまでも食えない人だ。

「端的に言う。あなたが目にした彼女の名前は、」

長門さんが口にした名前、僕には聞き覚えがあった。ええと、どこで聞いたんだっけ。結構よく耳にしていた気がする。隣のクラスかそのまた隣か、とにかく近いところでその人が話題に上っていたような。
あれ、でも。

「奇遇ですね、同姓同名の男子生徒がうちの学校にいますよ」

その人は、男だったはずだ。ああ、思い出した。涼宮ハルヒという奇人に捕まってしまった一般人なのだとか。宇宙人や未来人、超能力者と遊ぶのよ、と言ってうちのクラスまで来たこともある。そのとき、背後に控えていた男子生徒が確か…。そんな名前だったような。顔まで覚えていないけれど。

「別人ではない。同一人物」

「は?」

「……わたしは、あなたはもう少し察しがいいと思っていた」

なんだか責められるような瞳で見つめられて困っていると、長門さんが湯飲みに口をつけた。ええ、そりゃあ、もうなんとなく察しているけど。さっきの彼女が彼であったこともなんとなく気付いているけれど。だって、そんな不思議あるわけないだろう。

「ある。信じて」

僕の思考を読まないでください!

「彼らは同一人物。ある物質によって入れ物が一時的に変容する超自然的存在。ある物質とは、お湯と水。お湯によって女性に、水によって男性に変容する。尚、本来の性別は女性」

「ありえないでしょう!人間が、そんなことで変化するなんて――」

「けれどこれは事実」

すぱんと言い切られて言葉を失っていると、彼女が戻ってきた。首にタオルを引っ掛けて、さっきとは違うスウェットを身に着けている。やっぱりだぼだぼだ。もっとぴったりしたサイズを選べばよかったのに。
そんなことを思っていると、僕の表情を見て彼女が笑う。

「説得失敗か?」

「今のところは。まだ信じられない様子」

「まー、無理も無いわな」

お疲れ様、と言って長門さんの頭を撫でる彼女を見て、これが本当に男性に変わるのかと心底疑った。けれど、さっきの温かい牛乳を引っかぶって、彼が彼女に変わったのは確認済みだ。けど、まだ信じられない、というか。

「待ってろ。水用意してくる」

彼女はそう言ってキッチンに引っ込んだかと思うと、透明なガラスコップに水道水らしき水を入れて戻ってきた。それを見て、長門さんが立ち上がる。だめ、と小さく呟いた声が聞こえた。

「どうして」

「湯冷めする」

「だいじょーぶだって。そんなヤワじゃないさ」

がしがしとタオルで頭を拭いて、僕の目の前に立った。近い。まだ水の滴る髪の毛から、ぽたんと水滴が僕の頬に落ちる。ソファに座ったままの僕、立っている彼女。見上げた彼女は、逆光できらきらしているように見えた。

「よーく見てろよ」

止めようとする長門さんを軽くいなし、彼女はコップをくるりとひっくり返した。少量の水が勢いよく、その小さな頭に落ちる。その瞬間、僕は、信じられないものを、見た。
ぎゅう、と音がするような圧迫感を伴い、彼女の姿が変容して、まばたきひとつを置いて次の瞬間、男性に変わっていた!だぼだぼだった服はちょうどいいサイズに、軽く見上げていただけの僕は大きく見上げる形に。

「どうだ?信じたか?」

「……ええ、まあ……」

これで信じないなんて言ってみろ。逆に頭が疑われそうだ。
気付けばキッチンに引っ込んでいた長門さんが湯飲み片手に戻ってきて、軽く湯気の立つ湯飲みを再び彼の頭上でくるりと回転させる。ばちゃ、と音がして、そしてまたまばたきひとつの後に、彼女が現れた。水で温度を下げたのだろう、そう熱く無さそうなお湯だ。急いで長門さんがタオルを奪い取り、彼女の頭を拭く。

「でも、どうして男性の姿で学校に通っているんです?本当の性別は、女なんでしょう?」

僕の素直な質問に、水で濡れた彼女は忌々しそうに返答した。

「常識的に考えてみろ。お湯と水、日常生活で被りそうなのはどっちだ」

「……………水、ですね」

「だろ」

なるほど。
確かに、滅多にお湯なんかかぶらないだろうし、逆に水は、雨という最大の難関が立ちはだかる。人前でそんなチェンジを見られるわけにはいかないという精神らしいから、水をかぶっても平気な「男」でいる必要があるというわけか。
小さくなった彼女をかいがいしく世話する長門さんが、ふいに僕を見た。

「……もしあなたがこの事件を口外しようものなら、わたしはわたしの全権力をもってあなたを制裁する」

「絶対に口外しません!!!!!」

目線だけで殺されるかも、と思ったのは初めてだ!











20080329
古泉はヘタレ