…神龍寺戦。

脳では理解できていても、体が追いついていかない。
せわしなく時計を見ては視線を逸らし、時計を見ては視線を逸らしを繰り返す。
怖かった。
と、言うより、信じられなかった。
天才と称される阿含がいる、神龍寺。天才と称される一休がいる、神龍寺。そこに、究極の凡人が数人加わった、『努力だけで強くなったチーム』などとは言えない最強のチーム。

泥門は、努力型だ。
ヒル魔と栗田と武蔵で作り上げて、そこへセナや誰かが加わりこつこつと努力に努力を重ねてのし上がったチーム。
攻撃に攻撃を、そんな攻撃型でも通用しないような、どうにもならない壁が神龍寺と泥門の間にはあるような気がした。
また時計を確認する。時刻は8時。
どうしようもない胸のざわめきに、セナは起き上がった。

「…ダメだ」

何がだめかはわからないけど。
携帯と上着を手繰り寄せて、部屋から出る。音を立てないよう気をつけて外に出て、それから爆走ダッシュした。




どこをどう走っていたのかも分からない。学校を通り過ぎて、商店街を通り過ぎて、土手を通り過ぎて、また学校の前を通り過ぎた。
気づけば携帯のディスプレイは9時前を表示していて。本番前は練習をしてしっかり休めと言われていたのを思い出して一気にスピードを緩めた。
ネオンがきらきらと光っている。まだこんなに町はざわついているのだな、と考えつつゆっくりと歩いた。

「…だめだ」
やっぱりだめだ。呟いて、首を振った。と、水滴がぱらぱらと散る。頬を、額を、背中を流れる汗がどこから流れるのかと思うほどに流れていた。
ふらふらと歩きながら、暗い小道に入る。町の中は暑苦しい。少しの草木を掻き分けて進んだ先には、公園があった。
小さな電灯の下にベンチがあって、そこをぼんやりとした瞳で見つけて座り込む。ぱたんと倒れて空を見上げた。

「…何やってんだ」

「え?」

と、頭上で聞こえた声にセナは目を動かす。どうやらベンチには既に先客がいたらしい。手を伸ばせばすぐ届く場所に誰かの膝が見えた。
それより、声で誰がいるかなんてわかる。気づかないうちに頬が緩み、笑みを作る。「ヒル魔さん」呟いて起き上がった。

「なんだ、その汗」

「あ、えっと…、ちょっと、走ってて」

「……走ってて?」

ジャキン、とどこから取り出したのかライフルを連射するヒル魔にいつもの如く悲鳴を上げて頭を抱える。
銃声が鳴り止んだ後、そっと顔を上げた。完璧に呆れた表情とぶつかる。

「あれだけしっかり休めって言ったのに何してんだ糞チビが!」

ダダダダダダダ!!!!

「ひいぃぃぃ!!」

またも再開された銃撃にセナはベンチから逃げるべく立ち上がった。
ヒル魔も後から追うように立ち上がり、セナより幾分か長い腕でセナの襟首を掴む。

「ぅ、わっ!!」

重力には逆らえず、後ろに倒れこんだセナをヒル魔が抱きとめた。途端に静まり返った公園で、何かの虫がかすかにないている。
体制を整えたセナは、恐る恐る振り向いた。


「…ヒル魔、さん?」

「……なんだよ」

不機嫌そうな――いや、実際に不機嫌な顔。
ライフルがどこかに消えたのを確認し、ほっと安堵の息を吐いた。
どかりとベンチに座りこんだヒル魔に倣うようにセナもベンチに座る。不機嫌な顔で無糖ガムを噛む様は少し異様だった。

「ヒル魔さんは、何でこんなところに?」

額の汗をぬぐいつつ問いかけると、ヒル魔は視線だけこちらに寄越す。返事は無かった。
言えない理由なのかな、と口を閉じると、腕が伸びてきてセナの頭をぐりぐりと撫でる。「?」なんだかその手が少しだけ、震えている気がした。

電灯がちかちかと瞬いている。
電力の限界か、たまに切れてはついて。一瞬だけ暗くなる瞬間がセナは怖かった。
まっくらで、ヒル魔も何も言わない。何か話題を出さなければと口を開く。

「…明日、神龍寺戦ですね」

思った以上に出した声が震えていて、自分自身驚いた。

「…そうだな」

ようやくヒル魔から何かが返ってきて、セナは目を見開く。そして、嬉しそうに笑った。
ベンチに寄りかかり、電灯を見つめる。夜光虫が頬にとまりそうになって、急いで振り払った。

「思ったんですけど、」

すっかり冷えた背中をベンチに押し付けることでどうにか温度を保つ。「何だ?」それに気づいたように、ヒル魔がセナの肩に手を掛けて引っ張り、抱えた。
一瞬遅れて、ヒル魔が温めてくれているのだと理解して微笑んだ。

「…ヒル魔さんは、怖いとか…、思ったり、するんですか?」

間近にとくとくとヒル魔の心臓の音が聞こえて、どうしても口元が緩むのを押さえられない。
かと思いきや、いきなりヒル魔に頬をつねられた。「い、いひゃいいひゃい!!ひるまひゃん!!」ぐいー、と引っ張られて頬がよく伸びる。

「馬鹿か、テメェ。俺が何を怖がるってんだ」

顔が見えなくとも不機嫌さがひしひしとセナに伝わり、改めてセナは自分の言ったことが彼の逆鱗に触れたのだと理解した。
頬をつねる筋張った手を掴んで、必死に離そうとする。涙目になったあたりでふっと手が離れた。
顔を上げれば、やはり不機嫌そうな顔。まるでおもちゃを取られた子供のような。
笑ってしまって、再び手が伸びてセナの頬を引っ張った。同じようなところで手は離れる。

「…ごめんなさい」

「わかりゃいい」

ひりひりと痛む頬を押さえながら、セナは俯く。
ヒル魔に怖いものが無いなんて、うそだ。そう頭の中で考えた。
ヒル魔は気づいていないのだろうか。怒りつつセナの頬を引っ張った手、それが震えていたことに。
セナの肩を引き寄せた、その手が震えていたことに。

言わんとしていることが伝わったのか、ヒル魔は不敵に笑った。

「これは武者震いだ、明日の神龍寺戦のな」

その笑みに、セナは幾分か救われる。
けれど、不安はぬぐいきれなかった。だって、ヒル魔は何も言わない。今回の闘いの勝利の確率を。

(…言っても、意味がないのかな)

確かに、皆わかっている。ワイルドガンマンズの時とは明らかに勝率が違うことを。0%も無い、マイナスに傾くほどのものだということを。
きゅ、とズボンの裾を握り締めて、目を強く閉じた。



流れ星だ。 ヒル魔はそれを見つけて、忌々しく眉を寄せた。
流れ星に願いをすれば叶うなどと、過ぎた戯言を。

セナの頭を掴んで、上向かせる。驚いたように顔を上げて、そして流れ星を見つけたセナは眼を見開いた。

「流れ星、流れ星ですよ!ヒル魔さ、」

と。
ヒル魔のその嫌そうな顔に、セナは言葉を止める。はしゃいでいた自分が恥ずかしかったように、そっと上げた手を下ろした。
立ち上がって見上げた空は、その表情を見て途端に遠くなった気がする。

「…ごめんなさい」

「………怒ってねぇよ」

「わかってます、けど、」

そっと、セナは手を伸ばす。ヒル魔の、夜でもきらきらと輝く金髪ごと、頭を抱きしめた。
ヒル魔はそれを振りほどかない。拒否もしない。されるがままにされている。
夜光虫が、空中を飛びまわる音がした。

「ヒル魔さんは、怒ってるんじゃなくて、」

「あ?」

苛立ちも何も感じない、淡々とした返事。それを耳に入れながら、セナはそっと目を閉じる。
ヒル魔の腕が背中に回るのを感じてから、呟いた。

「…悔しいん、ですね」

「…」

「叶わない願いを持っている、自分が」

「…」

「何かに縋りつきたいほど、叶えたい、願いを持っている自分が」

「…」

ヒル魔は何も答えない。
それが無言の肯定だと理解して、セナは強くヒル魔の頭を抱きしめた。

「…流れ星は、隕石だ。願いも何も叶えてくれなんかしねぇ」

「…ヒル魔さん?」

「第一俺は、叶えたい願いは意地でも叶える。何かに願ったりなんかしねぇ」

「…」

けれど、ヒル魔がセナの背中を抱きしめる力は強く。
震える手は、まだ止まらなかった。

「……、うそつき」

「うるせー」

顔を上げれば、また流れ星。
電灯が力尽きて切れた。途端に暗くなる空を、ひたすら星が照らす。
流れ星が、セナの目には今一番悲しいものに見えた。

「空も泣けるのに、」

ヒル魔の頭を撫でて、ひとつ呼吸を置く。また星が流れた。



「あなたは、泣けないんですね」





携帯のディスプレイには9時21分の文字。
神龍寺戦まで、あと少し。