洗面台の上に置かれた真白なマグカップに、水を注いで歯を磨いた。
しばらくして口から泡を吐き出し、水で口を注ぐ。だくだくと、歯の隅々から歯磨き粉の特徴的な味が消え去った後で、再び水を口に含んだ。
「――ッ、ん―――!?」
胃が持ち上げられるような感覚に急いで水を吐き出し、濡れた手を唇に当てる。伏せていたはずの唇の隙間から、ごぽりと鈍い音を立てて生ぬるい液が零れ落ちた。
洗面台に広がる赤色。うんざりするほどの量に、咳。げほげほと強烈な咳を数回繰り返した後で、再び水を口にした。
口内を漱ぎ、半ば急くようにして吐き出す。純度はあまり高くない、水に薄められた血液が流れ出ていった。
吸い込まれるように消えていく水を呆然と見つめながら、手を持ち上げる。
真っ赤に染まってしまった手を見て、風呂に入りたい、と思った。
「さぼり」
「…………乱菊」
一言で罵られた。顔を上げて見慣れた表情を認識すると、短く息を吐く。
先日、あの少女に出会ってから、ろくに勉強に身が入らなかった。講義を受けていても上の空、ノートにペンを走らせてもミミズが這う。
そういったものは思春期特有の恋わずらいだと思ったのだが、恋では無いような気がする。恋というには淡白すぎて、愛というには軽すぎる。
「最近元気無いみたいね。勉強してんの?」
「…元気が無い、ていうか…。勉強はしてないんやけど」
「何、恋煩い?気色悪いわねぇ」
「…………」
今更だが、本当にこの幼馴染は容赦が無い。
曲がりなりにも人なのだから、こんな馬鹿正直とも言える罵倒を聞けば市丸だって傷つく。
かといって否定が出来るというわけでもないので、傷ついたまま無言を返した。
「…反論、しないのね」
意外そうに目を丸めた乱菊に、どうとも言えない表情を返して立ち上がった。背中を向けたまま手を振り、何かを言われる前に立ち去ることにする。
ノートとペンの入った小さな鞄を肩に掛け、適当に大学内を歩き始めた。人通りの少ない道を歩いているうちに飽きて、家路へとつく。
昼前のこの時間帯はあまり人がいない公園の前を通り過ぎようとして、ふと違和感を覚えた。
視界にちらつく銀色。自分と似たようで、でも少し違う。まさか、と思って目を凝らすと、確かにあの少女がベンチに座っていた。
「…一人なん?」
「…………誰だ、てめぇ」
外見の可愛らしさとは裏腹に乱暴な口調。市丸は少し驚いてから、許可も無いのにベンチの空いた場所に腰を掛ける。
少女が軽すぎるのか、平均体重よりかなり軽い市丸が座った部分でも少し地面にめり込んだようだった。座った状態でも見下ろせるほど小さな身丈。
翡翠と同じ色の瞳は思った以上に綺麗で、短い間見惚れた。
「ボク、市丸言うねん。よろしく」
「…………」
新手のナンパかと思われたのか、少女から返事は無い。
けど、だからといってここからどこかへ行こうという気持ちは無いらしく少女は市丸から視線をそらして空を見上げた。
携帯がぴりり、とかわいらしい音を立てる。市丸のものではない。だとすると完全に少女のものだということがわかるのだが、少女は携帯に出ようとする気配すらない。
「…出んの?」
「どうせ誰だかわかってるし」
短く返事を返した少女は、一応携帯を開いた。やっぱりな、と呟いて閉じて、膝の横に置く。瞬時に市丸の脳内にはあの橙色の少年が甦った。
しかし、もしあの少年が彼氏ならきっと少女も電話に出るはず。誰なのだろうか。親か誰かか。
そこで市丸は、違和感を覚えたことの全貌がわかった。少女の色彩をとらえただけではない、明らかな違和感。清楚なセーラー服の少女が、どうして昼前の公園にいるのか。
「…今日は学校」
「サボった」
いけしゃあしゃあと言い放った少女は、市丸に向き直って軽く微笑んだ。
綺麗な笑みなのに、どこか皮肉を孕んでいる。市丸も苦笑を返して、悪い子やなぁ、と呟いた。
「別に、行かなくてもテストの点は取れるし。天気がいいから面倒だし」
「……天気がええから面倒?」
「俺、太陽光苦手なんだよ」
まるで引きこもりの言葉だと思った。
随分乱暴な男言葉を使うのに、どこかそれが似合っている。優等生な外面をしているのに、どこか粗忽な部分も感じさせられた。
少女はものめずらしそうに市丸を見て、それから鞄を見て、そこからのぞくノートを見て、興味がわいたように少しだけ警戒心を和らげる。
「お前、大学生か?」
「あァ、そう。一応すぐそこの大学。めんどいから抜けてきた」
「あそこって……優等生のたまり場みてぇな学校じゃねぇか。てっきりバカみてぇに勉強ばっかしてる所だと思ってたぜ。お前のせいでイメージ崩れた」
「…………」
そんな身勝手な、と思いながらも、確かに自分のキャラはあの学校にしては珍しいだろう、と思って黙り込む。かく言う少女のセーラー服も、ここいらでは難関といわれる高校のものだったはずだ。こちらこそイメージが崩れたと言ってやろうかと思ったけれど、倍で返されそうなのでやめておいた。
「なんも、やる気が起きんかってん」
「…それ、何かわかる」
苦笑する少女の横で、また携帯が鳴る。ぴりり、ぴりり、と何回も。
再び、出んの?と聞くと、少女は首を横に振った。
「オトモダチやないの?」
「…そんなとこだけど、出たら連れ戻されるし」
「電源切ったら?」
「ぜってぇ探しに来るからイヤだ」
苦々しげに言い切った少女は携帯のディスプレイを見て再び眉を寄せた。
市丸の携帯も震える。どうやらこちらは電話ではなくメールのようだった。送信元は「松本 乱菊」。まあ自分に送ってくる人間なんて限りに限られるが。
開くと、『今日は昼ご飯は?』の一行。隣の少女を見ると、少女は面倒くさそうに携帯を閉じていた。『今日はええよ』とだけ打って、返す。
「なあ、一緒にご飯食べへん?」
「イヤだ」
「即答やな………」
「胡散臭ぇからな、お前」
まあ別に簡単に了承がもらえるとは思わなかったけれど。
了承がもらえるだろうと思って乱菊に返したわけではないけれど。
なんとなく残念な気持ちになって苦笑すると、そう凹むなよ、と少女が笑った。若いのに、ひどく表情が少ない。少ないというより乏しく、乏しいというより薄い、だった。
笑顔なのにどこか笑っていないような印象を受ける。
ぴりり、ぴりり、と再び携帯が鳴った。今度は鳴り止んでからの間隔が短い。少女は今度こそ観念したようで、無表情のまま携帯を開いた。
通話ボタンを押して耳に押し当て、「今から帰る。じゃな」市丸も驚くほど要点だけの言葉を吐いて携帯を閉じる。
「…彼氏?」
「それだけは断固否定しとくぜ」
苦々しげに呟いた少女は立ち上がり、少しだけ背伸びした。明るい日差しから逃げるように手を額に当てて、日光を遮る。
ぼうっとベンチに座ったままの市丸に振り返り、薄い唇を開いた。
「日番谷冬獅朗」
「へ?」
「俺の名前」
本当に要点だけしか話さない子だと思った。
ありがと、と呟いて、口内で反芻する。ひつがやとうしろう、日番谷冬獅朗。……
「男の子みたいな名前やね?」
「色々あったんだよ俺にも」
「…その性格にも、由来しとんの?」
「てめぇに話す義理は無ぇ」
すっぱり言い切られて、確かにそれもそうだと思った。
日番谷は携帯を乱暴にポケットに押し込むと、ベンチから数歩離れた木の下まで歩いていく。それから振り返って市丸に軽く手を振った。
「じゃな」
「……また会える?」
市丸自身、言っていて馬鹿らしい言葉だと思った。
しかし、日番谷はそれを笑いもしないで、一瞬ぽかんと目を瞬かせて苦笑する。
「生きてたらまた会えるさ」
「………なるべく多く会いたいんやけど」
「俺は十分ヒントをやったぞー」
言って、今度こそ振り返らないで歩き出す。
凛とした背筋が綺麗だと思った。この夏の季節に不釣合いなほど真白な体が、目立たないほどに遠くなっていく。
歩いてここに来れる距離で、日番谷という珍しい苗字。確かに多くヒントはもらった。
少し微笑んで立ち上がる。この日差しの鬱陶しさも今だけ気にならなかった。
自身の白までも
染めてしまう恐怖
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