人体についての講義を受けていると、ふいに生きている人間を解体してみたい、という気持 ちに駆られることがある。市丸の場合は、特にそれが顕著だった。
斜め前に座っている平均体型の男を見ると、どこから開けば脊髄が取り除けるだとか、この 体格ならどの部位を切れば殺せる、だとかを考えてしまう。解体してみたい、とは少し違う か。ただ、人体の分解に意識が向くだけだ。
民俗学を専攻している乱菊が今の市丸を見たら何と言っただろう。気持ち悪いと罵る以前に 私を解体するのはやめてね、と言いそうだ。彼女の場合は特に。周りのことよりまず自分の こと、というイメージがとても強いから。

(『日番谷冬獅朗』)

ふと、頭の中にあの表情が浮かぶ。
あの少女はなぜか、解体したい・分解したい、そんな意識を持たなかった。何故だろう。た だ単に飽きただけかもしれない。

(『俺の名前』)

俺。
秋葉だとかそこらへんに行けば、ごくたまに自分のことをボクと言う女はいる。まあどこを 探してもそういう女は1人や2人はいる。ただ、俺、という女はあまりいない。いるとして も完璧に男になりたいという願望を持っていたり、病的なほど女物を嫌がったり。
ただ、日番谷冬獅朗。彼女の場合はそういった類のものは感じられなかった。女であること を否定するわけではなく、かといって女らしいつつましさを持っているわけでもなく。
何より、名前からしておかしかった。普通、女に冬獅朗だなんて男らしい名前はつけない。 彼女の家の問題だが、それにしてもあんまりじゃないだろうか。

ふと、目の前の男が立ち上がった。続いてどんどん、生徒たちが講義室を出て行く。そこで ようやく、ああとっくのとうに講義は終わっていたのだな、と思った。











「日番谷…ひつがや……ひ………」

そしてまた考える。今の状況を乱菊が見たら何と言うだろうかと。
絶対にこう言う。今度は確信を持って言う。「あんた頭沸いたの?」と。彼女の性格は多分 、自分が一番知っていると市丸は確信していた。
住所録を片手に、見慣れない住宅地を歩く。番地の確認と表札の確認。普段人の家に行った りなんてしないものだから、住所を知ったところで探す方法がわからないのだ。
こういうときに乱菊がいればさっさとこの家はここでその家はあそこよ、と指図してくれる のだろうが、彼女がいたらいたで非難されること間違いなしなので、やはりひとりが一番い いのだと考え直す。
ぶつぶつと呟きながら歩いていると変質者と間違えられそうだったので、きゅっと口は引き 結んだ。ようやく、番地が自分の知ったものになったと確認して少し歩調を速める。
もうここまでくれば後は家を探すだけだ。住所を書いた紙をポケットの中にねじ入れる。
高級住宅街、と言うのだろうか。背の高い市丸が首が痛くなるほど見上げる、そのくらい大 きく、広い家が立ち並ぶ。日番谷という苗字は確かに高貴な印象を与えるが、さすが、名は 体をあらわすと言ったところだろうか。いや、体じゃないか。家か。

「…こら、おい!」

声が聞こえて動きを止めた。反射的に声が聞こえた方へ視線を向ける。「…!」これを言葉 で表現するならば奇跡か偶然か。基本的に市丸は奇跡という言葉が嫌いなので、偶然という ことにする。
冬獅朗が、猫を抱え上げていた。その猫が、冬獅朗のセーラー服の首元から顔を突っ込んで 、何かを漁っている。きらりと太陽光に反射して光る何かが市丸の目に映った。
シルバーアクセサリーか、その飾りを猫が口に含んだらしい。ぶちん、と嫌な音がして千切 れる。それをくわえたまま猫が軽やかに走り出した。

「ちょ、ッ、待て!」

冬獅朗が追いかけようとするが、2・3歩足を動かした瞬間、動きを止めた。それを遠くか らぼうっと見ていた市丸は、猫が遠ざかりかけた瞬間意識を取り戻したかのように目を瞬か せる。

「…逃げられるやん」

もともと足が普通の人間より長い市丸は、その分脚力もついている。足の速さには自信があ った。細かい路地に逃げようとする猫を追いかけ、これもまた長い腕で捕まえる。ギャン! と小さい声が上がって、けれどそれを無視した。
猫の口からはみ出ているシルバーアクセサリーを引っ張ると、いやいやながらも猫がうっす ら口をあける。その瞬間に引きずりだし、唾液でべとつくそれを人差し指と親指で摘み上げ た。

「…………」

3メートルほど離れた距離に、冬獅朗が静かに立つ。それ以上は近づく気がないのか、足は きれいにそろえられている。
市丸は苦笑して、アクセサリーを持ち上げた。ぺと、と唾液が地面にしみをつくる。市丸の 腕の中でもがいていた猫が今度こそ逃げ出し、住宅街に消えていく。
水道ある?と市丸が問いかけると、冬獅朗はゆっくり頷いた。人差し指をゆっくりと、市丸 の背後に向ける。なるほど公園がそこにあり、水道もぽつんと備えられていた。
遅れて冬獅朗が歩いてくる。けれど、けして走らない。走らないのは、面倒なのか。そうい えば今日はとても天気がいい。

(『天気がいいから面倒』)

関係があるのだろうか――考え始めた市丸の横に立って、冬獅朗はアクセサリーをじっと見 ていた。少し猫の歯型がついているが、原形はとどめている。それに安心したのか、強張っ ていた表情は少しだけ和らいだ。



公園の水道でアクセサリーを洗おうとした瞬間、冬獅朗がそれを制した。どうしたのだろう と首を傾けると、唾液でぬれたアクセサリーの飾り、市丸にはよくわからないが、ロケット のような形をしている部分。それを開く。
中から、風邪薬のようなカプセル剤が出てきた。ひとつだけ。それを掌に包んだ冬獅朗が、 そっと身を引く。
もう洗ってもいいということだろうか。勝手に解釈をした市丸は、丹念に洗いはじめる。タ オルが無いことに気づいた市丸が自分の服でそれを拭くと、そこでようやく冬獅朗が口を開 いた。

「…ごめん」

「ん、ええよ。ホラ、キミの。」

「…ありがと。」

きれいに乾いたロケットの中に薬をいれ、冬獅朗がそれを首にかけた。
セーラー服の下に隠れてもう見えない。

「………」

「………」

「……なんで猫、追いかけんかったん?」

何と言って話題を切り出せばいいのかわからず、市丸はそう言った。
冬獅朗が一拍置いてきょとんと目を瞬かせる。まるで、そんなことを言われるなんて想像し ていなかったかのように。
それから数秒の沈黙ののち、冬獅朗が近場のベンチに座り込んだ。つられるように市丸も隣 に座る。だいぶ日が落ちて、空がオレンジ色に光りだしていた。

「…追いかけれなかったんだよ」

ぽつりと。
ぽつりと、油断していれば聞き取れないほどの声量で冬獅朗が呟く。え、ともう一度問いか けようとした市丸に視線を合わせて、再び冬獅朗の口が開いた。言葉を言おうとして一瞬躊 躇ったように、口元がひきつる。翡翠と同じような瞳がわからないほど少しだけ細められて 、その瞳の中に市丸が映りこむ。
その表情がなんだか泣きそうで、

「はしれないんだ」


だから、何を言えばいいのか困った。





蝶よりもはやく走れた頃