何も考えたくない一心で仕事に耽っていると、くらりと軽い頭痛がして筆を手放してしまった。
静かな部屋にぱたり、とかすかな音が響き渡る。顔を上げた乱菊が「隊長?」不思議そうな顔をこちらに向けてきたが、大丈夫だと声を返すこともできない。

「たいちょ…う?」

自らの腰を上げて、乱菊は冬獅朗の元へと駆け寄った。机の上に伏せて、何が起こったかわからないといった顔で目を瞬かせている。

「大丈夫ですか?吐き気がしますか?」

「…………」

ゆるく起き上がり、乱菊の顔を確認してから冬獅朗は首を縦に振って、それから思い直したように横に振った。その顔の、普段以上の白さに尋常ではないと感づいた乱菊は細い肩に手をかける。

「起き上がれますか?」

「…ああ」

言って、椅子から下りようとした瞬間にふらりとふらついた冬獅朗の体を瞬時に支えて、これは立ち上がるのも無理そうだ、と気づき、脇の下に手を差し込んで体を抱えあげた。
乱菊の腕力でも持ち上げることのできる軽さ。以前抱き上げたことがあるが、今はそれ以上に軽い気がする。――――これは。
心底つらそうに目を伏せる彼を見て、乱菊の心臓はひやりと温度を下げた。思い当たる出来事は、ある。

(…ギン)

ソファの上に体を横たえて、額に手を当てる。特別熱いというほどでもない。呼吸は浅く、苦しそうに瞼を伏せている以外にはこれといって不自然なところは無かった。
乱菊から見てこれ以上、冬獅朗の体のどこが悪いのかはわからない。ちょっと待っててくださいね、と呟いて給湯室に乱雑に置いていた布をかけると執務室のドアを開けた。
しんと静まり返った廊下を急ぎ足で進む。瞬歩で行くべきか、と考えるほど思考が落ち着いていなかった。もたつく足に苛立ちを覚えながら小走りで先へ急ぐ。





「……、つ、もと?」

呟いて、目を開けた。
気づけば、ソファに寝かされている。数分ほど意識がとんでいたらしい。失態を、と舌打ちし、起き上がるべく肘をついて体に力を入れた。
が。ぐらりと視界が傾いで、問答無用でソファに押し戻される。重力に勝てない。ぐらつく頭を必死に動かそうにも、視界がはたはたと色を変えてはまるでフィルター越しに見ているかの如く薄暗く変化する。

(くそっ…)

ここ最近の無理がたたったか。
額に手を置いて、こうなった原因を考えた。どうしてだ?仕事をしすぎたといっても、年始年末は常にこんな仕事量で、自分もそれを平気でこなしていたというのに。
だとすると、精神的に疲れた面でもあるのだろうか。その線は体力的な疲れよりも色濃く可能性があったが、考えたくなかった。
そういえば、と目を軽く開く。

(…食事をとってなかったか)

指折り数える。1、2、3、4。4日近く食べ物をまともに口にしていなかった。乱菊から出される茶や、茶請けに出された茶菓子以外はそれこそ、主食すら。飲み物と糖分で生きていたのか、と我ながら感心する。
それならば栄養失調か何かで倒れてもおかしくない。余計に自分の失態が目立ち、冬獅朗は再度舌打ちをした。

かたん、と、物音。
ゆっくりと頭を動かし、執務室のドアへ視線を向ける。
ソファの影に隠れて見えづらいが、ドアの隙間から猫のようなものが顔を覗かせていた。

「…猫か」

どうしてこんなところに、と考えつつ、痛む頭はそれ以上何かを考えることを拒絶する。
松本、ドア閉めていくの忘れたのか。とか、どうでもいいことを考えて重い手を持ち上げた。
猫の引き寄せ方なんか知らない。猫の捕まえ方なんか知らない。けれど、指先をちょい、とこちらに向けると、お利口なのか猫はすらりと伸びた足をてふてふとこちらに向けて動かし始めた。

――みゃぁお。

細い声で鳴いて、猫は冬獅朗の指先に頬を摺り寄せた。
僅かなぬくもりが指先を擽り、目元が緩む。お前、人懐っこいんだな。そう呟いて、無理矢理笑った。
久しぶりに微笑んだ気がする。猫の喉元を撫でてやりながら、ふとそんなことを考えた。
みゃう、とまたひと鳴きして、猫はその場に座り込んだ。今度は丸くなる。ここは休憩場所じゃねぇんだぞ、と少しだけ毒づいても、猫は一向に動く気配を見せない。
短いため息を吐いて、放っておいた。松本はいつ帰ってくるのだろう。霊圧はまだ遠い。

数秒。短い沈黙に、風の音が割り込む。そういえばドア。閉めなければ、と思いながらも、動くことができない歯がゆさに唇を噛む。
ぐうっと首をのけぞらせて、猫を見つめた。「お前がドア閉めてくれたらなぁ」馬鹿みたいな提案を申し付けても、猫は何処吹く風、自由気ままに寝こけている。
途端、吹き込んできた風で机の上においていた筆がからりと落ちた。多少の墨と木の部分が床にぶつかる、些細な音に猫は飛び上がる。
ぴゃっと走り出し、ドアの数歩手前まで逃げた。

「――あ、おい!」

猫は内部を伺うようにじろりと見ると、その体勢のまま固まる。
かと思えば、冬獅朗に視線に気づいているのかいないのか、ゆっくり踵を返した。
ふいに冬獅朗の胸の内をなにか、焦燥感のようなものが駆け巡る。だめだ。いっちゃだめだ。
狭い隙間に進む猫に、半ば反射的に叫ぶ。


「――――ギン!」



ぴたり、猫は一瞬、立ち止まった。
それから、ついと顔を冬獅朗に向け、なーぉ、と短く鳴くとするりとドアから抜けていく。
首にこめていた力を抜かせ、そのままソファに深く沈みこんだ。

「…畜生…ッ」

がんがんと耳鳴りが、頭痛が激化する。
目じりを生ぬるい水が流れていく感覚が、気持ち悪くて嫌だった。俺を置いていくのか、とまるで糾弾するように呟く。猫のどこに罪があるというのか。

なぁお、とまた銀色交じりのその黒猫が鳴いた気がした。ただ今冬獅朗は、深く眠りにつきたかった。