sample1
カチコチカチコチカチコチ、忙しなく時計の針が動いている。今は何時だろうか、そんなことを考えながら、じっとりと汗をかいた額に触れた。現在の時刻が知りたいのならば、枕元にある時計を見れば知ることができる。けれど、知りたいわけではない。知ったところできっと、今抱えている悩みが解消されるわけでもないのだから。
窓に向ける視線、その視界には、真っ暗な空とベランダが映っていた。カーテンは、閉めない。自分が住むこの環境と、世界が隔離されているという感覚が、どうにも嫌いだった。ゆらゆら揺れているような外の景色に混じる薄い光は、宇宙の屑と呼ばれるにふさわしい。
ぎしりと、ふいにベッドが沈んだ。自分の体を受け止めているその面、ではない部分が。そっと息を吐いて、ようやく枕元にある時計を見上げる。薄暗い中ではあまりいいように見えないが、短針が数字の二を指して、長針が十二を指しているのはぼんやりながらも視認できた。それを理解して、もう一度息を吐く。秒針までは確認できなかったが、恐らくは秒針もたったいま十二を跨いだのだろう。
あたたかい手が伸びてきて、額に触れる。汗ばんで湿った前髪をかきあげて、水っぽい額をなでて、濡れた手のひらで頬に触れて、耳の後ろ、首筋、うなじ、鎖骨をなでて、引っこんで、かと思ったら今度は反対の手が伸びてきて、唇へ。荒れた唇の上を指先が二往復ほどして、飽きたのかと思うような緩慢さで髪の毛に。大きな影が落ちてきて、ベッドにふたつぶんの影をつくる。こちらからは絶対に触れない。焦れたような指先が口の中に入り込んでくる。舌、歯を爪先で掠めて、上顎、頬の裏側を指の腹でなでて。唇の端からこぼれた唾液はそのまま流れてシーツに落ちる。何もしゃべらない。何かを口にすれば、どうにかなるような気がした。現状を、打破するべきか、維持するべきか、どうにも僕は、迷っている。
「こいずみ」
僕の唇に触れる彼を、どうするべきか、迷っている。
sample2
「……なあ、なんかしゃべれよ」
「はい?」
黙っていたかと思えば、急に顔をあげた彼が困ったような表情を浮かべる。お前がぺらぺらしゃべってないと何か不安になる、といささか失礼にあたる発言をした彼は、なあ、と再び、僕にしゃべるよう促した。
とは言っても、しゃべるなと言われればしゃべりたくなる僕の天の邪鬼な部分はさておいて、急にしゃべれと言われると語る話題が出てこないのだ。何を話そうか、考えながら、では夢の話でも、とさらりと考えついた自分に驚愕した。そんなことを彼に話しでもしてみろ、この空気がどんなものになるか。これからの彼との関係が、どんなものになるか。容易に想像できる。
いっそこのまま彼の体を力任せに押し倒して、それか力の限り引き寄せて、その柔らかそうな耳のすぐ横で、耳の穴に流し込むように低い低い声で、あなたがどんな風に腰を振るのか、どんな風に泣き声をあげるのか、どんな風に涙を流すのかを、教え込んでやればいいのかもしれない。そうしたら彼は、そうしたら、たぶん、きっと、いやでも、たぶん。
そんなこと、だめだ。
「……お前、アドリブには弱いんだな」
「アドリブ……ですか」
「いっつも用意された台本読むみたいにしゃべってるから。でも、今みたいに突然言われると、戸惑って何も言わない」
「はは……すみません」
別に謝ってほしいわけじゃない、と苦い声を出した彼が、ふいにバランスを崩した。ゴミ箱のせいで前が見えなかったのだろう、かすかな段差に躓いて、前のめりに倒れそうになる。プラスチックのゴミ箱がクッションになるだろうということは想像できたけれど、気づけば手を伸ばしていた。彼の腕を掴んでこちらに引き寄せる。眼前に迫った首筋と、いつかの夜がデジャヴした。
(あ)
思った、直後にはもう行動に移していて、彼の体を力の限り突き放す。助かった、と言いかけた彼が、短い悲鳴めいたものをあげて壁に体を打ち付けた。あのまま前に倒れていたのと、今のように壁にぶつかるの、は、どちらがより痛かっただろう。
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