「手を、」
触ってみてもいいですか、と問いかけてみた。
彼は川べりでずっと魚を見ている。魚の種類に詳しくないが、魚だ。大きさは僕の手のひら、あるかないかの小ぶりなもの。
彼はそう言えば、釣りが趣味と言っていた。今泳いでいる魚は簡単に釣れそうだとか、釣って調理してみたらおいしそうだとか、そんな他愛ないことを考えているのだろうか。
背後に立って、彼の後頭部を見つめる。どこにでもありそうな、実際にどこにでもある、かるく丸みを帯びた頭。大きくて硬い何かで力いっぱい殴れば、そのままぱたりと倒れて川に頭を突っ込みそうな。そうだ、そんな事件が昔あった。トリックも何もない、その場の衝動で起きた簡単でかなしい殺人事件。
「え?」
ふと、まるで殴られることを予知したかのように彼が振り返る。泳いでいる魚のような、ぼうっとまるい目をしていた。彼ほど何を考えているのかわからない人は、いないと思う。今思えばあの足立透は、何を考えているのか読みにかかる人間に対し、的確に伝わりやすい思考、偽の顔を作るのがうまかった。
彼は、どうであろうか。足立透のように器用なタイプではなく、ただ純粋にぼうっとしていて、そのぼうっとした顔の奥でどうでもいいことやとても重要なことをさらさらと考えていくような人間なのだろうか。
彼が立ちあがる。僕より幾分、幾分と言う言い方だとほんの少しに感じられるかもしれないが具体的な表現にしておよそ頭一個分大きな頭、に見下ろされながら見下ろす景色は一体どんなものであろうかと考えた。彼がふいに手を伸ばしてくる。
「え?」
今度は僕が、先ほどの彼と同じような声を上げた。そして彼は、それを聞いて驚いたように目を見開く。なぜ、急に、手を?
「え、って、さっき直斗が」
「僕が……何か、言いましたか?」
きょとんとした表情の彼が、手を触ってもいいかって、とだけ呟いた。手を。ああ、そう言えばそんなことを聞いた気がする。川の中を覗き込みながらふらふらと揺れている手が、なんだかとても面白そうだったから。
そうでしたねごめんなさい、そう言いながら手を触る。さわることは、特に意味ない。
彼の手は、温かかった。思った以上に、硬かった。肉のうすい手のひらに指を沈ませてみても、かたい弾力に跳ね返された。僕の手は、彼と比べると割りばしのようなものだった。
「おもしろい?」
「どちらかと言えば」
「そ……そうか」
彼は戸惑ったように、しかし文句や制止といった類の言葉は一切口に出さず、それだけぽつりと呟く。どうやら押しが弱いタイプと見た。と言うよりは、普段の言動から考えて、これといって害のないものは放置するタイプらしい。必要最低限の危機感しか抱かないところは一番効率的で面倒のないやり方だが、彼はそれが随分簡単にできているのだなとこっそり感心した。
「直斗は」
「はい」
急に名前を呼ばれて顔を上げれば、彼が僕を見下ろしている。彼の瞳はやはりぼうっとただひたすらにまるく、考えが読めない。
「不思議だよな。いろいろと」
「えっ」
どうやら自分が言った言葉に妙な納得をしてしまったらしく、うん、不思議だ、と繰り返す彼。そしてその言動と行動は、ひどく屈辱的だった。と言うよりは、何か言いようのない理不尽さを感じる。
「それは、先輩にだけは言われたくないです」
「えっ」
まさかとばかりに彼がのけぞる。大きくぬらっとした体躯が僅かにずれるその様は、なんだかロボットのようにぎこちなかった。
「俺が不思議だなんて、言われたこともないし考えたこともなかったけど」
「いえ多分、言われなくても思われているとは思います」
「そうかな」
「そうです」
「言い切るね」
「はい」
あくまで淡々としたやりとりののち、彼はそうか、俺は不思議なのか、とうわの空で呟く。まるで他人事のようだった。いや、事実彼にとって僕のとるに足りない発言など、他人事でしかないのかもしれない。
彼が手をもごもごと動かしたので、そこでようやく手を離した。いままで触れていたことを忘れるほど、あっさりとしたふれあいだった。彼が腕をつけたばかりのロボットのように肩を動かし、筋肉をほぐす。それは緊張をほぐすための動きなのだろうかと考えていると、彼はふん、と僅かに息をもらし、僕を見下ろした。
「どこらへんが、不思議かな」
「どこらへん……ですか」
「そう」
どこらへん、どこらへん。急に話を振られて、ぱっと出てくるような不思議物語は今のところない。ただ漠然と、ふわふわと、そう言えば彼は不思議だなと思うだけで。ただの勘やはっとしたときの思いつき、などと口にすれば、彼はどう思うだろうか。
「今ですと、例えばひたすら川の中を見つめ続けるところでしょうか」
「川」
「ええ」
川です。そう続けると、彼はくるりと身をひるがえした。
川べりに再び座り込み、それから幼い子供のようにこちらを見上げる。先ほど触った手が、ちょいちょいと僕を手招きするので横に並んだ。今なら彼を蹴飛ばして川に突き落とすことがとても簡単にできるなあ、とぼんやり思いながら座りこむと、彼がほら、と小さく呟く。
「あれ。直斗」
「僕は魚じゃないです」
「そうじゃなくて、あれ。紅金って言うんだけど」
「はあ」
あれきれいだよなあ、そうぼんやり彼は言った。
確かに名前の通り、ほんのり赤味がかったきれいな魚だ。先ほど僕が見た魚はそんな名前だったのかと頭にしっかり書き込みながら、彼の指の先を追う。あれも紅金、それも紅金、あっちの奥のほうにいるのがコハクヤマメ。ほう、ほう、あれが。適当に相槌を打ちながら、覚えていく。
そんな折、ふと彼の横顔を見た。なぜ彼が不思議であるという話から、魚の名称の話題に移ったのだろうか。彼は多分この魚を見て、自分が何をしていたのかを訴えようとしたのだろうが、おあいにくとそれは僕の中の「彼の不思議物語」にしっかり記録されてしまった。そしてそんな彼に不思議と言われた僕もまた、彼に記録されているのかもしれない。
「今度、釣りでも一緒にしてみよっか。直斗」
おもむろに彼が口を開く。まるで明日は晴れだから傘はいらないね、とでも言うような軽い口調で。
彼から誘いを受けるとき、僕はそれが誘いであることに一瞬気付かない。あまりにもさらりと、まるで言葉を掴ませないかのように言ってしまう人だから、その言葉を瞬時にものにすることができないのだろう。
「釣り、ですか」
「釣り。楽しいよ」
「ええ、それは、楽しそうですけど」
晴れの日も曇りの日も、果ては雨の日まで。どうしたのかと思うような頻度で、彼は釣りをしている。たのしいし、いいものがいっぱい捕れると言っていた。そして僕はそのおこぼれを、片手で数える以上にはいただいている。
断る理由も、なにもない。彼の不思議な空気に、混ざっていてもいいかという気持ちになる。
「そうですね。ぜひ、次の晴れた日にでも」
「明日は晴れるらしいけど」
「明日……ですか。大丈夫ですよ」
「そうか、よかった」
「でも、したことはありませんので、ご教授よろしくお願いします」
ご教授ってなんか、高貴な感じがするねと彼が続ける。どうしてそんな発想になるのか、恐らく教授というものを上の位にとらえているからであろうと予測はつくが、考えを重ねるに至る彼の発想はやはり不思議なのだと思う。
彼がまるい小石を投げた。水の上をぴんぴんとはねて、三回。四回目で沈んだ小石を避けるように、コハクヤマメが泳いでいく。ただひたすら、きらきらと光る水面とその奥を見つめる彼と、さらさら清々しい川の音。透き通るようにぼうっとまるい彼の瞳を見ながら、僕もまた、簡単に釣られるのだろうかということを考えた。
20120109 つる人つられる人
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