生田目がいいように動いたもんだからもうそりゃおかしくて、今隣をすれ違った人もびっくりして逃げ出すような大声を上げて笑ってしまいたかったんだけど、それをすると今後に差し支えるからなんとか我慢して家路を急ぐ。家に帰ればそこからは僕の空間で、僕がいかに笑おうといかに蔑もうとそれを止める人やびっくりして見てくる人などいない。田舎というものは本当に不便で、ちょっとした事件があると次の日には八割がた広まっている。人と人との間が密接、と言うととても聞こえがいいが、ただ単に話題がないだけで、会話の潤滑油程度に噂話を持ってくるから次から次へとバケツリレーのごとく話がわたっていくのだろう。あー、マジでバカ。楽しい。
さてその楽しみに色を添えてくれる人物の家の前を通りがかって、ふと足が止まった。毎日毎夜学校だの授業だの部活だの人助けだの、夜はバイトだので忙しいねえ。合間合間になんとか時間を作ってはお仲間さんとあっちの世界へお出かけだ。楽しいだろうなあ、毎日力いっぱい生きてんだもんなあ。ばからしい。子供ってアホでかわいい。アホだからかわいい。
毎日必死に犯人探しに明け暮れている上司はいまだ署にいるもんだから、家をいくら見ていようが誰も咎めはしないだろうけど、あまりまじまじと見ているとご近所さんが気づくだろう。さてそろそろ本当に笑いたいので行こうか、と靴を鳴らしたところ、アホのようなタイミングで玄関すぐ近くの窓が開く。
「あ、足立さん」
「おわ、鳴上くん。びっくりしたぁ」
アホじゃねーの何突然窓開けてんだ、とは思ったけど驚いたのは事実だから驚いておこう。オーバーリアクションをとるのもなかなか労力を使うが嫌いではない。だって楽しいし。
窓からこちらを見る彼は不思議そうに何度か瞬きしたあと、一瞬後ろを見た。後ろに誰かいるのだろうかと思ったがそうでもないらしい。かと思うと再びこちらを見て、足立さん、と僕の名を呼ぶ。はーい、と僕は答える。
「あの、散らかってますけど。上がってください」
「えぇ?」
ぴしゃっ!と窓がしまって、数秒後に玄関が開いた。半分開いたドアから彼が、どうぞ、と手をなかに向ける。なにこれたのしい。毎日毎日真犯人捕まえてやるぞふんがー!ってなってる集団の元締めが真犯人の僕をアッサリ家のなかに引き入れる。アホ。アホでたのしい。この子かわいい。アホで。
「ちょうど、晩ごはん作ろうとしてたんです。ちょっと買いすぎちゃって」
「えー、処理係?任せてよ」
「聞こえは悪いけどまあそんなものです。すみません」
ソファの上に置いてあった服、おそらく彼のものであろうそれを持って二階に上がった彼がまた再び下りてくる。どうぞ楽にしててくださいと言われたので喜んでソファに座った。まだあの小さい子は姿を見せない。目線でそれを察したか、彼が「菜々子なら」と別の部屋を指さす。
「部屋の片付けをしてます」
「ふーん。小さいのにしっかりしてるよねぇ」
ですよね、と彼が笑った。その笑顔はなんというか、言葉で表そうとすると難しいけど、ほんわか、というかのほほん、というか、ほっこり、というか、とにかく心底安心しきった、相手を(この場合その菜々子ちゃんを、かな)信頼しきった表情で、なんだか笑えた。いくらでも、笑えた。口元に浮かぶ笑みは別に嘘じゃない。ほんもの。だってアホだもん。楽しい。でも彼はその笑顔を別の解釈で受け取る。そうだよねえ、このタイミングで笑ったら、微笑ましくて笑ってるって、思うよねえ、普通は。
「そういえば、何作るの?」
「サンドイッチです。菜々子がすぐ食べられるものがいいって言うから」
どうやらほんとうの兄妹ではないらしいけど、そうは思わせない程度に仲良くなってはいるようだ。あーこれはもしも、あの女の子が拐われることになったら、彼は今のふわふわした笑顔を消して、怒りに打ち震えるんだろうな。たのしい、見てみたい。
しかし、サンドイッチ、ねえ。仕事が終わらないときに片手でつまんで食べられるから重宝していた。その怒涛の仕事時間を思い出すからあまりいいものではないけれど、味は嫌いではない。でも夜の食事でサンドイッチって。まあいいけど。
「辛子、塗ってもいいですか?」
「ん?いいよー。君がおいしいって思うものを作ってよ」
勝手にリモコンを借りて天気予報を見る。瞬間、彼がこちらを見た。テレビの画面を見て、なんとも言えない顔をする。天気、気になるよねえ。雨が続くと困るよねえ。雨が降らないといいねえ。
すぐに視線をそらしてサンドイッチ作りを再開した彼の背中を見たあと、またチャンネルをかえた。どっと笑い声が起こって空間が騒がしくなる。こういう、騒がしい音を聞いていると、ふいに懐かしくなるのはなんでだなんてことは考えない。目を閉じればその思い出が蘇るから瞬きもすばやく。ああ、いやだねえ静かなのは。うるさいのも嫌いだけど。
野菜を切る音がする。手でちぎる音もする。そういう、普段耳慣れない音を聞いていると、そわそわと肌の表面がくすぐったくなる。きもちわるい。昔、いつかの年で卒業したはずの、やさしさを気取った音だ。
そういうのは、嫌いだ。家庭っぽいの。家に帰れば無条件で、ご飯が出て、洗濯してもらえて、朝起こしてもらえて、そういう甘ったれた空間を思い出して、いやになる。そういうのは、もういらない。だから、こういう音は嫌い。一人でする分には、視覚的情報のおかげでなにかをしてもらっている、という感覚に浸ったりしないから、いいけど。
誰かがいるこの空間で、ただじっとしているのはきもちわるい。当たり前に向けられる好意や油断のない態度にいらいらする。楽しいのに、何か突然その楽しいものをぶん殴って、アホじゃねえのと罵りたくなる。お前が無条件に与えているその相手は、そのものは、それを与えるべき相手でも、与えていいものでもないんだと、笑いながら言ってやりたい。
「はい、足立さん」
と、目の前に差し出された白い皿に、目が点になった。
「あ……、ありがとう。早いねえ、慣れてるね」
「まあ、サンドイッチくらいなら」
「ごめんね、いっただっきまーす」
「どうぞ食べててください。あ、お茶テーブルの上に置いてますから。俺はあと、自分たちのを作るので、ちょっとお相手できませんけど」
いいよいいよ、相手いらないよ。とは言わずに気にしないでよ、と心にもないことを言う。
やわらかい、あまり歯ごたえのない白いパンと、しゃっきりとみずみずしいレタス、冷えていて水っぽいトマト、味の薄いハム、あとから遅れて辛子のツンとしたものが鼻にあがる。
ジュネスで購入したのは丸分かりのラインナップ、まずくもないが、決して絶品とは言えないそれをゆっくりと食みながら、いつかのあの感覚を思い出した。思い出したくもない、もう今では望んでも与えられないその感覚を、いとも簡単に与えられてしまって、喜びなんかもう浮かんでこない。ただただ、ひたすら、きもちわるい。
君は本当にアホで、残酷で、かわいそうだよ。
かわいそうだよ、君は。
「鳴上くん、辛子きつすぎるよ……」
「え、すみません。……いやあの、足立さん、辛子くらいで泣かないでくださいよ……」
20120131 かよわき者ども
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